君に、親切で教えてやっているんじゃないか。先輩としての利己主義を、暗黙のうちに正義に化す。」
私は、いやな気がした。こんどは、本心から、この少年に敵意を感じた。
第二回
決意したのである。この少年の傲慢《ごうまん》無礼を、打擲《ちょうちゃく》してしまおうと決意した。そうと決意すれば、私もかなりに兇悪酷冷の男になり得るつもりであった。私は馬鹿に似ているが、けれども、根からの低能でも無かった筈である。自信が無いとは言っても、それはまた別な尺度から言っている事で、何もこんな一面識も無い年少の者から、これ程までにみそくそに言われる覚えは無いのである。
私は立って着物の裾の塵《ちり》をぱっぱっと払い、それから、ぐいと顎をしゃくって、
「おい、君。タンタリゼーションってのは、どうせ、たかの知れてるものだ。かえって今じゃ、通俗だ。本当に頭のいい奴は、君みたいな気取った言いかたは、しないものだ。君こそ、ずいぶん頭が悪い。様子《ようす》ぶってるだけじゃ無いか。先輩が一体どうしたというのだ。誰も君を、後輩だなんて思ってやしない。君が、ひとりで勝手に卑屈になっているだけじゃないか。」
少年は草原に寝ころび眼をつぶったまま、薄笑いして聞いていたが、やがて眼を細くあけて私の顔を横眼で見て、
「君は、誰に言っているんだい。僕にそんなこと言ったって、わかりやしない。弱るね。」
「そうか。失敬した。」思わず軽く頭をさげて、それから、しまった! と気附いた。かりそめにも目前の論敵に頭をさげるとは、容易ならぬ失態である。喧嘩《けんか》に礼儀は、禁物である。どうも私には、大人《たいじん》の風格がありすぎて困るのである。ちっとも余裕なんて無いくせに、ともすると余裕を見せたがって困るのである。勝敗の結果よりも、余裕の有無のほうを、とかく問題にしたがる傾向がある。それだから、必ず試合には負けるのである。ほめた事ではない。私は気を取り直し、
「とにかく立たないか。君に、言いたい事があるんだ。」
胸に、或る計画が浮かんだ。
「怒ったのかね。仕様がねえなあ。弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。」
言う事がいちいち不愉快である。
「僕のほうが、弱い者かも知れない。どっちが、どうだか判ったものじゃない。とにかく起きて上衣《うわぎ》を着たまえ。」
「へん、本当に怒っていやがる。どっこいしょ。」と小声で言って少年は起き上り、「上衣なんて、ありやしない。」
「嘘をつけ。貧を衒《てら》う。安価なヒロイズムだ。さっさと靴《くつ》をはいて、僕と一緒に来たまえ。」
「靴なんて、ありやしない。売っちゃったんだよ。」立ちつくし、私の顔を見上げて笑っている。
私は、異様な恐怖に襲われた。この目前の少年を、まるっきりの狂人ではないかと疑ったのである。
「君は、まさか、」と言いかけて、どもってしまった。あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。
「きのう迄は、あったんだよ。要《い》らなくなったから、売っちゃった。シャツなら、あるさ。」と無邪気な口調で言って、足もとの草原から、かなり上等らしい駱駝《らくだ》色のアンダアシャツを拾い上げ、「はだかで、ここまで来られるものか。僕の下宿は本郷だよ。ばかだね、君は。」
「はだしで来たわけじゃ、ないだろうね。」私は尚《なお》も、しつこく狐疑《こぎ》した。甚だ不安なのである。
「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛《びっこ》を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、本当に、水の中では靴も要らない。上衣も要らない。貴賤貧富の別が無いんだ。」と声に気取った抑揚《よくよう》をつけて言った。
「君はバイロンかい。」私は努めて興醒《きょうざ》めの言葉を選んで言った。少年の相変らずの思わせぶりが、次第に鼻持ちならなく感ぜられて来たのである。「君は跛でもないじゃないか。それに、人間は、水の中にばかり居られるものじゃない。」自分で言いながら、ぞっとした程狂暴な、味気ない言葉であった。毒を以て毒を制するのだ。かまう事は無い、と胸の奥でこっそり自己弁解した。
「嫉妬さ。妬《や》けているんだよ、君は。」少年は下唇をちろと舐《な》めて口早に応じた。「老いぼれのぼんくらは、若い才能に遭うと、いたたまらなくなるものさ。否定し尽すまでは、堪忍できないんだ。ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。話があるんなら、話を聞くよ。だらしが無いねえ、君は。僕を、どこかへ引っぱって行こうというのか?」
見ると、彼は、いつのまにやら、ちゃんと下駄をはいている。買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング