君、ここに二十円あります。これで、佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。」
「要らないよ、そんなもの。」佐伯は、いよいよ顔を真赤にして、小声で言った。
「いや、君にあげるわけじゃないんだ。熊本君の友情を見込んで、一時、おあずけするだけだ。」
「わかりました。」熊本君は、お金を受け取り、眼鏡の奥の小さい眼を精一ぱいに見開いて、直立不動の姿勢で言った。「たしかに、おあずかり致します。他日、佐伯君の学業成った暁には、――」
「いや、それには及びません。」私は、急に、てれくさくて、かなわなくなった。お金など、出さなければよかったと思った。「ここを出ましょう。街を、少し歩いて見ましょう。」
街は、もう暮れていた。
私ひとりは、やはり多少、酔っていた。自分のたいへんな、苦学生の姿も忘れて、何かと大声で、ばかな事ばかりしゃべり散らしていた。
「おい佐伯、その風呂敷包みは重くないか。僕が、かわりに持ってやろう。いいんだ、僕によこせ。よし来た。アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン、と。知ってるかい? どっこいしょの、うんとこしょって意味なんだ。フロオベエルは、この言葉一つに、三箇月も苦心したんだぞ。」
ああ、思えば不思議な宵であった。人生に、こんな意外な経験があるとは、知らなかった。私は二人の学生と、宵の渋谷の街を酔って歩いて、失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。
「歌を歌おう。いいかい。一緒に歌うのだよ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。よし。
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ああ消えはてし 青春の
愉楽の行衛《ゆくえ》 今いずこ
心のままに 興じたる
黄金《こがね》の時よ 玉の日よ
汝《いまし》帰らず その影を
求めて我は 歎くのみ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて 若人の
帽子《かむり》は古び 粗衣は裂け
長剣《つるぎ》は錆《さび》を こうむりて
したたる光 今いずこ
宴《うたげ》の歌も 消えうせつ
刃音《はおと》拍車《はくしゃ》の 音もなし
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
されど正しき 若人の
心は永久《とわ》に 冷《さ》むるなし
勉《つと》めの日にも 嬉戯《たわむれ》の
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