、恐怖している。私は、少し疲れた。花びらを追う事を、あきらめて、ゆっくり歩いた。たちまち一群の花びらは、流れて遠のき、きらと陽に白く小さく光って見えなくなった。私は、意味の無い溜息《ためいき》を、ほっと吐《つ》いて、手のひらで額《ひたい》の汗を拭き払った時、すぐ足もとで、わあ寒い! という叫び声が。
私は、もちろん驚いた。尻餅《しりもち》をつかんばかりに、驚いた。人喰い川を、真白い全裸の少年が泳いでいる。いや、押し流されている。頭を水面に、すっと高く出し、にこにこ笑いながら、わあ寒い、寒いなあ、と言い私のほうを振り向き振り向き、みるみる下流に押し流されて行った。私は、わけもわからず走り出した。大事件だ。あれは、溺死するにきまっている。私は、泳げないが、でも、見ているわけにはいかぬ。私は、いつ死んだって、惜しくないからだである。救えないまでも飛び込み、共に死ななければならぬ。死所を得たというものかも知れぬ、などと、非論理的な愚鈍の事を、きれぎれに考えながら、なりも振りもかまわずに走った。一言でいえば、私は極度に狼狽《ろうばい》していたのである。木の根に躓《つまず》いて顛倒《てんとう》しそうになっても、にこりともせず、そのまま、つんのめるような姿勢のままで、走りつづけた。いつもは、こんな草原は、蛇《へび》がいそうな故を以《もっ》て、絶対に避けて通ることにしているのであるが、いまは蛇に食い附かれたって構わぬ、どうせ直ぐに死ななければならぬからだである、ぜいたくを言って居られぬ。私は人命救助のために、雑草を踏みわけ踏みわけ一直線に走っていると、
「あいたたた、」と突然背後に悲鳴が起り、「君、ひどいじゃないか。僕のおなかを、いやというほど踏んでいったぞ。」
聞き覚えのある声である。力あまって二三歩よろめき前進してから、やっと踏みとどまり、振り向いて見ると、少年が、草原の中に全裸のままで仰向けに寝ている。私は急に憤怒《ふんぬ》を覚えて、
「あぶないんだ。この川は。危険なんだ。」と、この場合あまり適切とは思えない叱咤《しった》の言を叫び威厳を取りつくろう為に、着物の裾《すそ》の乱れを調整し、「僕は、君を救助しに来たんだ。」
少年は上半身を起し、まつげの長い、うるんだ眼を、ずるそうに細めて私を見上げ、
「君は、ばかだね。僕がここに寝ているのも知らずに、顔色かえて駈けて行きやが
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