」
「いや、千の知識よりも、一つの行動。」
「そうして君に出来る唯一の行動は、まっぱだかで人喰い川を泳ぐだけのものじゃないか。ぶんを知らなくちゃいけない。」私は、勝ったと思った。
「さっきは、あれは、特別なんだよ。」少年は、大人のような老いた苦笑をもらした。「どうも、ごちそうさま。」と神妙にお辞儀して、どんぶりを傍に片附け、「事情があったんだよ。聞いてくれるかね?」
「言ってみ給え。」騎虎《きこ》の勢である。
「言ってみたって、どうにもならんけど、このごろ僕は、目茶苦茶なんだよ。中学だけは、家のお金で卒業できたのだけれど、あとが続かなかったんだ。貧乏なんだよ。僕は数学を、もっと勉強したかったから、父に無断で高等学校に受けて、はいったんだ。葉山さんを知ってるかい? 葉山圭造。いつか、鉄道の参与官か何かやっていた。代議士だよ。」
「知らないね。」私は、なぜだか、いらいらして来た。どうも私は、人の身の上話を聞く事は、下手である。われに何の関《かかわ》りあらんや、という気がして来るのである。黙って聞いているうちに、自分の肩にだんだん不慮の責任が覆《おお》いかぶさって来るようで、不安なやら、不愉快なやら、たまらぬのである。その人を、気の毒と思っても、自分には何も出来ぬという興醒めな現実が、はっきりわかっているので、なおさら、いやになるのだ。「代議士なんてのは、知らないね。金持なのかい?」
「まあ、そうだ。」少年は、ひどく落ちついた口調である。「僕の郷土の先輩なんだ。郷土の先輩なんて、可笑《おか》しなものさ。同じお国|訛《なまり》があるだけさ。僕は、その人からお金をもらって、いや、ただもらっていたわけじゃ無いんだ。僕は、教えていたんだ。」
「教えながら教わっていたのかね。」私は、早くこの話を、やめてもらいたかった。少しも興味が無い。
「女学校三年の娘がひとりいるんだ。団子《だんご》みたいだ。なっちゃいない。」
「ほのかな恋愛かね。」私は、いい加減な事ばかり言っていた。
「ばか言っちゃいけない。」少年は、むきになった。「僕には、プライドがあるんだ。このごろ、だんだんそいつが、僕を小使みたいに扱って来たんだよ。奥さんも、いけないんだがね。とうとう、きのう我慢出来なくなっちゃって、――」
「僕は、つまらないんだよ、そういう話は。世の中の概念でしか無い。歩けば疲れる、という話と同じ事だ
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