出る時、散髪せよと家の者に言われて、手渡されたものなのである。けれども私は、悪質の小説の原稿を投函して、たちまち友人知己の嘲笑が、はっきり耳に聞え、いたたまらなくなってその散髪の義務をも怠ってしまったのである。
「待て、待て。」と私は老婆を呼びとめた。全身かっと熱くなった。「親子どんぶりは、いくらだね。」下等な質問であった。
「五十銭でございます。」
「それでは、親子どんぶり一つだ。一つでいい。それから、番茶を一ぱい下さい。」
「ちえっ、」少年は躊躇なく私をせせら笑った。「ちゃっかりしていやがら。」
 私は、溜息をついた。なんと言われても、致しかたの無いことである。私は急に、いやになった。こんなに誇りを傷つけられて、この上なにを少年に説いてやろうとするのか。私は何も言いたくなくなった。
「君は、学生かい?」と私は、実に優しい口調で、甚《はなは》だ月並な質問を発してしまった。眼は、それでもやはり習慣的に池の面を眺めている。二尺ちかい緋鯉《ひごい》がゆらゆら私たちの床几の下に泳ぎ寄って来た。
「きのうまでは、学生だったんだ。きょうからは、ちがうんだ。どうでもいいじゃないか、そんな事は。」少年は、元気よく答える。
「そうだね。僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まない。深く立ちいって聞いてみたって、僕には何も世話の出来ない事が、わかっているんだから。」
「俗物だね、君は。申しわけばかり言ってやがる。目茶苦茶や。」
「ああ、目茶苦茶なんだ。たくさん言いたい事も、あったんだけれど、いやになった。だまって景色でも見ているほうがいいね。」
「そんな身分になりたいよ。僕なんて、だまっていたくても、だまって居れない。心にもない道化でも言っていなけれや、生きて行けないんだ。」大人《おとな》びた、誠実のこもった声であった。私は思わず振り向いて、少年の顔を見直した。
「それは、誰の事を言っているんだ。」
 少年は、不機嫌に顔をしかめて、
「僕の事じゃないか。僕は、きのう迄、良家の家庭教師だったんだぜ。低能のひとり娘に代数を教えていたんだ。僕だって、教えるほど知ってやしない。教えながら覚えるという奴さ。そこは、ごまかしが、きくんだけども、幇間《ほうかん》の役までさせられて、」ふっと口を噤《つぐ》んだ。

       第三回

 茶店の老婆が、親子どんぶりを一つ、盆《ぼん》に捧げて持って来
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