万人の日本の男女の生活を吸いとって、てかてか黒く光っている。これだけは盗めるのである。野は、あかねさすむらさき野。島は、浮《うき》島、八十《やそ》島。浜は、長浜《ながはま》。浦は、生《おう》の浦、和歌の浦。寺は、壺坂、笠置、法輪。森は、忍《しのび》の森、仮寝《うたたね》の森、立聞《たちぎき》の森。関は、なこそ、白川。古典ではないが、着物の名称など。黄八丈《きはちじょう》、蚊《か》がすり、藍《あい》みじん、麻の葉、鳴海しぼり。かつて実物を見たことがなくても、それでも、模様が、ありありと眼に浮ぶから不思議である。これをこそ、伝統のちからというのであろう。
すこし調子が出て来たぞと思ったら、もう八枚である。指定の枚数である。ふたたび、現実の重苦しさが襲いかかる。読みかえしてみたら、甚だわけのわからぬことが書かれてある。しどろもどろの、朝令暮改。こんなものでいいのかしら。何か気のきいた言葉でもって結びたいのだが、少し考えさせて下さい。
いよいよだめだ。これでおしまいだ。おゆるし下さい。私は小説を書きたいのです。
底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元
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