「いや、アグリパイナは、ネロの恋を邪魔して、――」
「うむ、なるほど。」詩人、煙草をふかしながら、「ネロは、それゆえ、母をなくした。お母さん、おゆるし下さい、私は、あなたのものじゃない。母は、苦しい息の下から囁く。おまえ、お母さんが憎いかい?」
 美濃は興覚《きょうざ》め顔に、「まあ、そんなところさ。」椅子から立ちあがって部屋の中を歩きまわり、「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」
「よせよ。どうも古い。大時代《おおじだい》だ。」詩人は、美濃の此のような多少の文才も愛しているし、また、こんな物語を独《ひと》りでこっそり書いている美濃の身の上を、不憫にも思うのだが、けれども、美濃のこんどの無法な新手の恋愛には、わざと気づかぬ振りをしていようと思った。「まるで、映画物語じゃないか。」
「呑むか?」美濃は、机上のウイスキイの瓶に手をかけた。
「敢《あ》えて辞さない。」詩人も立ちあがった。
 これでいいのだ。
「ロオマの人のために。」ふたり同時に言い、かちっとグラスを触れ合せる。「滅亡の階級のために。チェリオ。」

        E

 人のこころも
 まこと信じてもらうには
 十字架に
 のぼらなければ
 なるまいか
              (イヴァン・ゴル)

        F

 てるは、解雇された。美濃とのあいだが露見したからでは無い。ふたりは、ひとめを欺く事には巧みであった。てるは、その物腰の粗雑にして、言語もまた無礼きわまり、敬語の使用法など、めちゃめちゃのゆえを以《もっ》て解雇されたのである。
 美濃は、知らぬ振りをしていた。
 三日を経て、夜の九時頃、美濃十郎は、てるの家の店先にふらと立っていた。
「てるは、いますか? 僕は美濃です。」
 出て来たのは、眼のするどい瘠《や》せがたの青年であった。勘蔵である。
「あ、」勘蔵は屹《き》っとなって、「てる坊!」と奥のほうへ呼びかけた。
「しつれいします。」そのまま美濃は、店先から離れて、蹌踉《そうろう》と巷《ちまた》へひきかえした。ぞろぞろ人がとおっていた。
 息せき切って、てるが追いかけて来た。美濃のからだに、右から左からまつわりつくようにして歩きながら、
「え? なぜ、来たの? あたしは、手癖がわるいのよ。追い出されたのよ。あたしの家、きたなくて、驚いたでしょう? でも、おねがい、ばかにしないで、ね。家の人たち、みんなやさしいのだもの。一生懸命やっているのよ。笑っているの? なぜ、だまっているの?」
「君には、おむこさんがあるのだね。」
「あら、あたし、こんな恰好して、みっとも無いのね。」急に老《ふ》けた口調でそんな事を呟き、顔を伏せた。「このごろ、ろくすっぽ髪も結わないのよ。」
「あの人と、わかれること、出来ないか。僕は、なんでもする。どんな苦しい事でも、こらえる。」
 てるは、答えなかった。
「いいんだ、いいんだ。」美濃は、逃げるように足を早めた。「いいんだ、だいじょうぶだ。お互い死なない事だけは、約束しよう。なんて言いながら、危いのは、僕のほうなんだからなあ。」
 ふたり、まっすぐを見つめたまま、せっせと歩いた。ただ、歩いた。歩いた。千里も歩いた。

        G

 美濃十郎は、実業家三村圭造の次女ひさと結婚した。帝国ホテルで華麗の披露宴を行った。その時の、新郎新婦の写真が、二、三の新聞に出ていた。十八歳の花嫁の姿は、月見草のように可憐であった。

        H

 みんな幸福に暮した。



底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年1月16日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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