古典風
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美濃《みの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)芸|娼妓《しょうぎ》の七割は、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+發」、345−19]
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――こんな小説も、私は読みたい。(作者)
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A
美濃《みの》十郎は、伯爵《はくしゃく》美濃英樹の嗣子《しし》である。二十八歳である。
一夜、美濃が酔いしれて帰宅したところ、家の中は、ざわめいている。さして気にもとめずに、廊下を歩いていって、母の居間のまえにさしかかった時、どなた、と中から声がした。母の声である。僕です、と明確に答えて、居間の障子《しょうじ》をあけた。部屋には、母がひとり離れて坐っていて、それと向い合って、召使いのものが五、六人、部屋の一隅にひしとかたまって、坐っていた。
「なんです。」と美濃は立ったままで尋ねた。
母は言いにくそうに、
「あなたは、私のペーパーナイフなど、お知りでないだろうね。銀のが。なくなったんだがね。」
美濃は、いやな顔をした。
「存じて居ります。僕が頂戴いたしました。」
障子を閉めもせず、そのまま廊下をふらふら歩いていって、自分の寝室へはいった。ひどく酔っていた。上衣《うわぎ》を脱いだだけで、ベッドに音高くからだをたたきつけ、それなり、眠ってしまった。
水を飲みたく、目があいた。夜が明けている。枕《まくら》もとに小さい女の子がうつむいて立っていた。美濃は、だまっていた。昨夜の酔が、まだそのままに残っていた。口をきくのも、物憂かった。女の子には見覚えがあった。このごろ新しく雇いいれたわが家の下婢《かひ》に相違なかった。名前は、記憶してなかった。
ぼんやり下婢の様を見ているうちに、むしゃくしゃして来た。
「何をしているのだ。」うす汚い気さえしたのである。
女の子は、ふっと顔を挙《あ》げた。真蒼《まっさお》である。頬のあたりが異様な緊張で、ひきつってゆがんでいた。醜い顔ではなかったが、それでも、何だか、みじめな生き物の感じで、美濃は軽い憤怒を覚えた。
「ばかなやつだ。」と意味なく叱咤《しった》した。
「あたし、」下婢は再びうなだれ、震え声で言った。「十郎様を、いけないお方だとばかり存じていました。」そこまで言って、くたくた坐った。
「ペーパーナイフかね?」美濃は笑った。
女は黙って二度も三度もうなずいた。そうして、エプロンの下から小さい銀のペーパーナイフをちらと覗《のぞ》かせてみせた。
「ペーパーナイフを盗むなんて、へんなやつだ。でも、綺麗《きれい》だと思ったのなら仕様が無い。」
女の子は声を立てずに慟哭《どうこく》をはじめた。美濃は少し愉快になる。よい朝だと思った。
「母上がよくない。ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んで、ただページを切って、それだけでお得意、たいへんなお道楽だ。」美濃は寝たままで思いきり大袈裟《おおげさ》に背伸びした。
「いいえ、」女は上半身を起し、髪を掻《か》きあげて、「奥様は、ご立派なお方です。あたし、親兄弟の蔭口きくかた、いやです。」
美濃はのそりと起き、ベッドの上にあぐらをかいた。ひそかに苦笑している。
「君は、いくつだね?」
「十九歳になります。」素直にそう答えて、顔を伏せた。うれしそうであった。
「もうお帰り。」美濃は、下婢のとしなど尋ねた自分を下品だと思った。
女は、マットに片手をついて横坐りのまま、じっとしていた。
「誰にも言いやしない。いいから、早く出て行って呉《く》れないか。」
女の子には、何よりもナイフが欲しかった。光る手裏剣《しゅりけん》が欲しかった。流石《さすが》に、下さい。とは言い得なかった。汗でぐしょぐしょになるほど握りしめていた掌中のナイフを、力一ぱいマットに投げ捨て、脱兎《だっと》の如《ごと》く部屋から飛び出た。
B
尾上《おのえ》てるは、含羞《はにか》むような笑顔《えがお》と、しなやかな四肢とを持った気性のつよい娘であった。浅草の或る町の三味線職の長女として生れた。かなりの店であったが、てるが十三の時、父は大酒のために指がふるえて仕事がうまく出来なくなり、職人をたのんでも思うようにゆかず、ほとんど店は崩壊したのである。てるは、千住の蕎麦《そば》屋に住込みで奉公する事になった。千住に二年つとめて、それから月島のミルクホールに少しいて、さらに上野の米久《よねきゅう》に移り住んだ。ここに三年いたのである。わずかなお給金の中から、二円でも三円でも毎月かかさず親元へ仕送りをつづけた。十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえに勘蔵という腕のよい実直な職人を捜し当て、すべて店を任せ、どうやら恢復《かいふく》しかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝らしく家事の手伝い、お針の稽古《けいこ》などをはじめた。てるには、弟がひとりあった。てるに似ず、無口で、弱気な子であった。勘蔵に教えられ、店の仕事に精出していた。てるの老父母は、この勘蔵にてるをめあわせ、末永く弟の後見をさせたい腹であった。てるも、勘蔵も、両親のその計画にうすうす感づいてはいたが、けれども、お互いに、いやでなかった。十九歳になった。てるも追々お嫁さんになれるとしごろになったのだから、ただ行儀見習いだけのつもりで、ひとつ立派なお屋敷に奉公してみる気はないか、と老母にすすめられ、親の言う事には素直なてるは、ほんとうに、毎日こうしてうちで遊んでいるよりは、と機嫌よく承知した。店のお得意筋に当るさる身分ある方の御隠居の口添で、奉公先がきまった。美濃伯爵家である。
美濃家は、淋《さび》しい家であった。てるは、お寺に来たような気がした。奉公に来て二日目の朝、てるは庭先で手帖を一冊ひろった。それには、わけのわからぬ事が、いっぱい書かれて在った。美濃十郎の手帖である。
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○あれでもない、これでもない。
○何も無い。
○FNへチップ五円わすれぬこと。薔薇《ばら》の花束、白と薄紅がよからむ。水曜日。手渡す時の仕草が問題。
○ネロの孤独に就《つ》いて。
○どんないい人の優しい挨拶にも、何か打算が在るのだと思うと、つらいね。
○誰か殺して呉れ。
○以後、洋服は月賦のこと。断行せよ。
○本気になれぬ。
○ゆうべ、うらない看《み》てもらった。長生《ちょうせい》する由。子供がたくさん出来る由。
○飼いごろし。
○モオツアルト。Mozart.
○人のためになって死にたい。
○コーヒー八杯呑んでみる。なんともなし。
○文化の敵、ラジオ。拡声器。
○自転車一台購入。べつに使途なし。
○もりたや女将《おかみ》に六百円手交。借銭は人生の義務か。
○駱駝《らくだ》が針の穴をくぐるとは、それや無理な。出来ませぬて。
○私を葬り去る事の易《やす》き哉《かな》。
○公侯伯子男。公、侯、伯、子、男。
○銭湯よろし。
○美濃十郎。美濃十郎。美濃十郎。初号活字の名刺でも作りますか。
○H、ばか。D、低能。ゴルフのカップは、よだれ受け。S、阿呆《あほう》。学校だけは出ました。U、半死。あの若さで守銭奴とは。O君はよい。男ぶりだけでも。
○昼は消えつつものをこそ思う。
○水戸黄門、諸国漫遊は、余が一生の念願也。
○私は尊敬におびえている。
○没落ばんざい。
○パスカルを忘れず。
○芸|娼妓《しょうぎ》の七割は、精神病者であるとか。「道理で話が合うと思った。」
○誰か見ている。
○みんないいひとだと私は思う。
○煙草をたべたら、死ぬかしら。
○机に向って端座し、十円紙幣をつくづく見つめた。不思議のものであった。
○肉親地獄。
○安い酒ほど、ききめがいい。
○鏡を覗《のぞ》いてみて、噴きだした。所詮、恋愛を語る顔でなし。
○もとをただせば、野山のすすきか。
○あたりまえの人になりたい努力。
○所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。
○KR女史に、耳環《みみわ》を贈る約束。
○人の子には、ひとつの顔しか無かった。
○性慾を憎む。
○明日。
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読んでいって、てるには、ひどく不思議な気がした。庭を掃き掃き、幾度も首をふって考えた。この、謂《い》わば悪魔のお経《きょう》が、てるの嫁入りまえの大事なからだに悪い宿命の影を投じた。
C
私をお笑い下さいませ、毎夜、毎夜、私は花とばかり語り合って居ります。あなたさまをも含めてみんなを、いやになりました。花は、万朶《ばんだ》のさくらの花でも、一輪、一輪、おそろしいくらいの個性を持って居ります。私は、いま、ベッドに腹這いになって、鉛筆をなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかり苦しくなって、そうして、枕元の水仙《すいせん》の花を見つめて居ります。電気スタンドの下で水仙の花が三輪、ひとつは右を向き、ひとつは左を向き、もうひとつは、うつむいたまま、それぞれ私に語ります。右を向いている真面目の花は、わかっているわよ。けれども、生きなければなりませぬ。左を向いている活溌の花は、どうせ、世の中って、こんなものさ。うつむいている少し萎《しお》れかけた花は、おひめさま、あなたは花ほどのこともないのね、申しました。生れながらの古典人、だまっていても歴史的な、床の間の置き物みたいな私たちの宿命を、花さえ笑って眺めて居ります。床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触《さわ》るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです。滑稽《こっけい》の極致でございます。文化の果《はて》には、いつも大笑いのナンセンスが出現するようでございます。教養の、あらゆる道は、目的のない抱腹絶倒に通じて在るような気さえ致します。私はこの世で、いちばん不健康な、まっくらやみの女かも知れませぬけれど、また、その故にこそ、最も高い、まことの健康、見せかけでない、たくましい朝を、知っているように存ぜられます。
なぜ生きていなければいけないのか、その問《とい》に思い悩んで居るうちは、私たち、朝の光を見ることが、出来ませぬ。そうして、私たちを苦しめて居るのは、ただ、この問ひとつに尽きているようでございます。ああ、溜息《ためいき》ごとに人は百歩ずつ後退する、とか。私はこのごろ、たいへん酷烈な結論を一つ発見いたしました。貴族はエゴイストだ、という動かぬ結論でございます。いいえ、なんにもおっしゃいますな。やっぱり、ご自分おひとりのことしか考えて居りませぬ。ご自分おひとりの恰好《かっこう》のためにのみ、死ぬるばかり苦しんで居ります。ご存じでございましょうけれど、私の枕元には、三輪の水仙のほかに小さい鏡台がひとつ置かれてございます。私は花を眺め、それから、この鏡のなかを覗いて、私の美しい顔に話しかけます。美しい、と申しあげました。私は、私の顔を愛して居ります。いいえ、哀惜《あいせき》して居ります。白状なさい、あなたさまも全く同じような一夜をお持ちなさいましたことを。私たちの不幸は、私たちの苦悩はみんなここから、この鏡の中から湧《わ》いて出ているのではございませぬか。ひとのため、たいへんつまらぬ、ひとりの肉親のため、自身を泥に埋めて、こなごなにする盲動が、なぜ私たちに、出来ないのでございましょう。それが出来たら。ゆるがぬ信仰を以《もっ》てそれが、出来たら。きざな事ばかり言って居ります。軽蔑なさい
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