仕送りをつづけた。十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえに勘蔵という腕のよい実直な職人を捜し当て、すべて店を任せ、どうやら恢復《かいふく》しかけていた。てるは、無理に奉公に出ずともよかった。てるは、殊勝らしく家事の手伝い、お針の稽古《けいこ》などをはじめた。てるには、弟がひとりあった。てるに似ず、無口で、弱気な子であった。勘蔵に教えられ、店の仕事に精出していた。てるの老父母は、この勘蔵にてるをめあわせ、末永く弟の後見をさせたい腹であった。てるも、勘蔵も、両親のその計画にうすうす感づいてはいたが、けれども、お互いに、いやでなかった。十九歳になった。てるも追々お嫁さんになれるとしごろになったのだから、ただ行儀見習いだけのつもりで、ひとつ立派なお屋敷に奉公してみる気はないか、と老母にすすめられ、親の言う事には素直なてるは、ほんとうに、毎日こうしてうちで遊んでいるよりは、と機嫌よく承知した。店のお得意筋に当るさる身分ある方の御隠居の口添で、奉公先がきまった。美濃伯爵家である。
美濃家は、淋《さび》しい家であった。てるは、お寺に来たような気がした。奉公に来て二日目の朝、てるは庭先で手帖を一冊ひろった。それには、わけのわからぬ事が、いっぱい書かれて在った。美濃十郎の手帖である。
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○あれでもない、これでもない。
○何も無い。
○FNへチップ五円わすれぬこと。薔薇《ばら》の花束、白と薄紅がよからむ。水曜日。手渡す時の仕草が問題。
○ネロの孤独に就《つ》いて。
○どんないい人の優しい挨拶にも、何か打算が在るのだと思うと、つらいね。
○誰か殺して呉れ。
○以後、洋服は月賦のこと。断行せよ。
○本気になれぬ。
○ゆうべ、うらない看《み》てもらった。長生《ちょうせい》する由。子供がたくさん出来る由。
○飼いごろし。
○モオツアルト。Mozart.
○人のためになって死にたい。
○コーヒー八杯呑んでみる。なんともなし。
○文化の敵、ラジオ。拡声器。
○自転車一台購入。べつに使途なし。
○もりたや女将《おかみ》に六百円手交。借銭は人生の義務か。
○駱駝《らくだ》が針の穴をくぐるとは、それや無理な。出来ませぬて。
○私を葬り去る事の易《やす》き哉《かな》。
○公侯伯子男。公、侯、伯、子、男。
○銭湯よろし。
○美濃十郎。美濃十郎。美濃十郎。初号活字の名刺でも作りますか。
○H、ばか。D、低能。ゴルフのカップは、よだれ受け。S、阿呆《あほう》。学校だけは出ました。U、半死。あの若さで守銭奴とは。O君はよい。男ぶりだけでも。
○昼は消えつつものをこそ思う。
○水戸黄門、諸国漫遊は、余が一生の念願也。
○私は尊敬におびえている。
○没落ばんざい。
○パスカルを忘れず。
○芸|娼妓《しょうぎ》の七割は、精神病者であるとか。「道理で話が合うと思った。」
○誰か見ている。
○みんないいひとだと私は思う。
○煙草をたべたら、死ぬかしら。
○机に向って端座し、十円紙幣をつくづく見つめた。不思議のものであった。
○肉親地獄。
○安い酒ほど、ききめがいい。
○鏡を覗《のぞ》いてみて、噴きだした。所詮、恋愛を語る顔でなし。
○もとをただせば、野山のすすきか。
○あたりまえの人になりたい努力。
○所詮は、言葉だ。やっぱり、言葉だ。すべては、言葉だ。
○KR女史に、耳環《みみわ》を贈る約束。
○人の子には、ひとつの顔しか無かった。
○性慾を憎む。
○明日。
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読んでいって、てるには、ひどく不思議な気がした。庭を掃き掃き、幾度も首をふって考えた。この、謂《い》わば悪魔のお経《きょう》が、てるの嫁入りまえの大事なからだに悪い宿命の影を投じた。
C
私をお笑い下さいませ、毎夜、毎夜、私は花とばかり語り合って居ります。あなたさまをも含めてみんなを、いやになりました。花は、万朶《ばんだ》のさくらの花でも、一輪、一輪、おそろしいくらいの個性を持って居ります。私は、いま、ベッドに腹這いになって、鉛筆をなめなめ、考え考えして、一字、一字、書きすすめ、もう、死ぬるばかり苦しくなって、そうして、枕元の水仙《すいせん》の花を見つめて居ります。電気スタンドの下で水仙の花が三輪、ひとつは右を向き、ひとつは左を向き、もうひとつは、うつむいたまま、それぞれ私に語ります。右を向いている真面目の花は、わかっているわよ。けれども、生きなければなりませぬ。左を向いている活溌の花は、どうせ、世の中って、こんなものさ。うつむいている
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