ず、
「きょうは、いやだ。」
「おや、おや。」詩人は部屋へはいって来た。「まさか、死ぬ気じゃないだろうね。」
「いいかい? 読むぞ。」美濃は、机に向ったままで、自分の労作を大声で読みはじめた。「アグリパイナは、ロオマの王者、カリギュラの妹君として生れた。漆黒の頭髪と、小麦色の頬と、痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。極端に吊りあがった二つの眼は、山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。純白のドレスを好んで着した。
 アグリパイナには乳房《ちぶさ》が無い、と宮廷に集《つど》う伊達《だて》男たちが囁《ささや》き合った。美女ではなかった。けれどもその高慢にして悧※[#「りっしんべん+發」、345−19]《りはつ》、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態は、当時のみやび男《お》の一、二のものに、かえって狂おしい迄の魅力を与えた。
 アグリパイナは、おのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。兄は、一点非なき賢王として、カイザアたる孤高の宿命に聡《さと》くも殉ぜむとする凄烈《せいれつ》の覚悟を有し、せめて、わがひとりの妹、アグリパイナにこそ、まこと人らしき自由を得させたいものと、無言の庇護を怠らなかった。
 アグリパイナの男性侮辱は、きわめて自然に行われ、しかも、歴史的なる見事さにまで達した。時の唇薄き群臣どもは、この事実を以《もっ》て、アグリパイナの類《たぐい》まれなる才女たる証左となし、いよいよ、やんやの喝采《かっさい》を惜しまなかった。
 アグリパイナの不幸は、アグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。彼女の男性嘲笑は、その結婚に依《よ》り、完膚《かんぷ》無きまでに返報せられた。婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎|手飼《てがい》の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵《きょうえん》につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄《せんりつ》に依ってのみ生命《いのち》の在りどころを知るたちの男であった。アグリパイナは、唇を噛んで、この凌辱《りょうじょく》に堪えた。いつの日か、この目前の男性たちすべてに、今宵の無礼を悔いさせてやるのだ、と心ひそかに神に誓った。けれども、その雪辱の日は、なかなかに来なかった。ブラゼンバートの暴圧には、限りがなかった。こころよい愛撫のかわりに、歯齦《はぐき》から血の出るほどの殴打があった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濛々の戦車の疾駈《しっく》があった。
 相剋《そうこく》の結合は、含羞《がんしゅう》の華をひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。
 アグリパイナは、ほとんど復讐を断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼《まひる》に生れた。男子であった。膚やわらかく、唇赤き弱々しげの男子であった。ドミチウス(ネロの幼名)と呼ばれた。
 父君ブラゼンバートは、嬰児《えいじ》と初の対面を為し、そのやわらかき片頬を、むずと抓《つね》りあげ、うむ、奇態のものじゃ、ヒッポのよい玩具が出来たわ、と言い放ち、腹をゆすって笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気にいりの牝獅子《めじし》の名であった。アグリパイナは、産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。この子は、あなたのお子ではございませぬ。この子は、きっとヒッポの子です。
 その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴《ざくろ》を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾《しんぎんてんてん》の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡《ぬ》れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、と呻《うめ》くがごとく囁《ささや》き、涙と接吻でネロの花顔《かがん》をめちゃめちゃにした。
 その喜びも束《つか》の間《ま》であった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。かつて叡智に輝やける眉間《みけん》には、短剣で切り込まれたような無慙《むざん》に深い立皺《たてじわ》がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑《こぎ》の焔《ほのお》が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下の足音にも、許すことなく苛酷の刑罰を課した。陰鬱の冷括《れいとう》、吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒は、アグリパイナの枕頭にひっそり立った。一人は、死刑の宣告書を持ち、
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