一人は、宝石ちりばめたる毒杯を、一人は短剣の鞘《さや》を払って。
『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳を失わず、きっと起き直って難詰《なんきつ》した。応《こた》えは無かった。
宣告書は手交せられた。
ちらと眼をくれ、『このような、死罪を言い渡されるような、理由は、ない。そこ退《の》け、下賤の者。』応えは無かった。
理由は、おまえに覚えがある筈《はず》、そう言ってカリギュラ王は、戸口に姿を現わした。今朝おまえは、ドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながら、ドミチウスや、私たちは、どうしてこんなに不仕合せなのだろうね、と恨《うら》みごとを並べて居った。わしは、それを聞いてしまった。隠すな。謀叛の疑い充分。ドミチウスと二人で死ぬがよい。
『ドミチウスを殺しては、いけません。』アグリパイナの必死の抗議の声は、天来のそれの如く厳粛に響き渡る。『ドミチウスは、あなたのものでない。また、私のものでもございません。ドミチウスは、神の子です。ドミチウスは、美しい子です。ドミチウスは、ロオマの子です。ドミチウスを殺しては、いけません。』
疑懼《ぎく》のカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。
アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。
単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、猛《たけ》く美しく成長した。アグリパイナは、ネロの手をひいて孤島の渚《なぎさ》を逍遥《しょうよう》し、水平線のかなたを指さし、ドミチウスや、ロオマは、きっと、あの辺だよ。早く、ロオマへ帰りたいね、ロオマは、この世で一ばん美しい都だよ、そう教えて、涙にむせた。ネロは無心に波とたわむれていた。
その頃、ロオマは騒動であった。蒼《あお》ざめた、カリギュラ王は、その臣下の手に依って弑《しい》せられるところとなり、彼には世嗣《よつぎ》は無く全く孤独の身の上だったし、この後、誰が位にのぼるのか、群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。後継は、さだめられた。カリギュラの叔父、クロオジヤス。当時すでに、五十歳を越えていた。宮廷に於ける諸勢力に対し、過不足ないよう、ことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。クロオジヤスは、申し分《ぶん》なき好人物にして、その条件に適《かな》っている如く見えた。
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