芸術ぎらい
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)支那《しな》の
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魯迅の随筆に、「以前、私は情熱を傾けて支那《しな》の社会を攻撃した文章を書いた事がありましたけれども、それも、実は、やっぱりつまらないものでした。支那の社会は、私がそんなに躍起《やっき》となって攻撃している事を、ちっとも知りやしなかったのです。ばかばかしい。」というような文章があって、私はそれを読んでひとりで声を出して笑ってしまった事があるけれども、私が映画に就《つ》いて語る場合も、少しそれと似たような結果になるのではあるまいかと思われる。
私は十年来、ひどくまずい小説ばかり書いて来ている三十六歳の男子であって、小説界に於いても私の言説にまじめに耳を傾けてくれるような物好きな人がひとりもいない現状なのだから、いわんや、映画界に於いては、誰も私のつまらぬ名前など知らんのではないかと思われる。名前を知られたって、ろくな事は無いのだし、別段、自分の無名を残念がってもいないのであるが、でも、世間の人は、無名の人の文章は(お互いいそがしいのだから)てんで読もうとしないので、困るのである。私がもし映画統制局々長(そんな官名があるかどうか知らないが)とか何とかの肩書のある男であったなら、「どうも、なんですねえ、娯楽味を忘れては、なりませんですねえ」などと何の意味も無いような意見を述べても、映画界の幹部たちはひとしく感奮し、ただちに映画界の全従業員を集めて、「実にこの娯楽味を忘れてはなりませぬです」という一場の訓辞をこころみるかも知れないのだから、人の気持って微妙なものだ。
私だって少しは誇りを持っている。自分の書いた文章が、全く読まれないか、あるいはざっと一読の光栄に浴して、そうして、「なんだいこれは」と顔をしかめられるのをハッキリ自覚しながら、それでも一字一字まじめに考え考えして文章を書かなければならぬというのは、つらい話である。むかしの私だったら、この種の原稿の依頼に対しては汗顔平伏して御辞退申し上げるに違いないのであるが、このごろの私は少し変った。日本のために、自分の力の全部を出し切らなければならぬ。小説界と映画界とは、そんなに遠く隔絶せられた世界でもない。小説家としての私の愚見も、あるいは、ひょっとしたら、ひとりの勇敢な映画人に依って支持せられるというような奇
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