酒を、と言つた。私が酒を呑むのも、單に季節のせゐだと思はせたかつた。いやいやさうに酒を噛みくだしつつ、私は美人の女給には眼もくれなかつた。どこのカフヱにも、色氣に乏しい慾氣ばかりの中年の女給がひとりばかりゐるものであるが、私はそのやうな女給にだけ言葉をかけてやつた。おもにその日の天候や物價について話し合つた。私は、神も氣づかぬ素早さで、呑みほした酒瓶の數を勘定するのが上手であつた。テエブルに並べられたビイル瓶が六本になれば、日本酒の徳利が十本になれば、私は思ひ出したやうにふらつと立ちあがり、お會計、とひくく呟くのである。五圓を越えることはなかつた。私は、わざとはうばうのポケツトに手をつつこんでみるのだ。金の仕舞ひどころを忘れたつもりなのである。いよいよおしまひにかのズボンのポケツトに氣がつくのであつた。私はポケツトの中の右手をしばらくもぢもぢさせる。五六枚の紙幤をえらんでゐるかたちである。やうやく、私はいちまいの紙幤をポケツトから拔きとり、それを十圓紙幤であるか五圓紙幤であるか確かめてから、女給に手渡すのである。釣錢は、少いけれど、と言つて見むきもせず全部くれてやつた。肩をすぼめ、大股をつかつてカフヱを出てしまつて、學校の寮につくまで私はいちども振りかへらぬのである。翌る日から、また粒粒の小錢を貯めにとりかかるのであつた。
 決鬪の夜、私は「ひまはり」といふカフヱにはひつた。私は紺色の長いマントをひつかけ、純白の革手袋をはめてゐた。私はひとつカフヱにつづけて二度は行かなかつた。きまつて五圓紙幤を出すといふことに不審を持たれるのを怖れたのである。「ひまはり」への訪問は、私にとつて二月ぶりであつた。
 そのころ私のすがたにどこやら似たところのある異國の一青年が、活動役者として出世しかけてゐたので、私も少しづつ女の眼をひきはじめた。私がそのカフヱの隅の椅子に坐ると、そこの女給四人すべてが、樣樣の着物を着て私のテエブルのまへに立ち並んだ。冬であつた。私は、熱い酒を、と言つた。さうしてさもさも寒さうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひとりの女給が、私が默つてゐても、煙草をいつぽんめぐんでくれたのである。
「ひまはり」は小さくてしかも汚い。束髮を結つた一尺に二尺くらゐの顏の女のぐつたりと頬杖をつき、くるみの實ほどの大きな齒をむきだして微笑んでゐるポスタアが、東側の壁にいちまい貼られてゐた。ポスタアの裾にはカブトビイルと横に黒く印刷されてある。それと向ひ合つた西側の壁には一坪ばかりの鏡がかけられてゐた。鏡は金粉を塗つた額縁に收められてゐるのである。北側の入口には赤と黒との縞のよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうへの壁に、沼のほとりの草原に裸で寢ころんで大笑ひをしてゐる西洋の女の冩眞がピンでとめつけられてゐた。南側の壁には、紙の風船玉がひとつ、くつついてゐた。それがすぐ私の頭のうへにあるのである。腹の立つほど、調和がなかつた。三つのテエブルと十脚の椅子。中央にストオヴ。土間は板張りであつた。私はこのカフヱでは、たうてい落ちつけないことを知つてゐた。電氣が暗いので、まだしも幸ひである。
 その夜、私は異樣な歡待を受けた。私がその中年の女給に酌をされて熱い日本酒の最初の徳利をからにしたころ、さきに私に煙草をいつぽんめぐんで呉れたわかい女給が、突然、私の鼻先へ右のてのひらを差し出したのである。私はおどろかずに、ゆつくり顏をあげて、その女給の小さい瞳の奧をのぞいた。運命をうらなつて呉れ、と言ふのである。私はとつさのうちに了解した。たとへ私が默つてゐても、私のからだから豫言者らしい高い匂ひが發するのだ。私は女の手に觸れず、ちらと眼をくれ、きのふ愛人を失つた、と呟いた。當つたのである。そこで異樣な歡待がはじまつた。ひとりのふとつた女給は、私を先生とさへ呼んだ。私は、みんなの手相を見てやつた。十九歳だ。寅のとし生れだ。よすぎる男を思つて苦勞してゐる。薔薇の花が好きだ。君の家の犬は、仔犬を産んだ。仔犬の數は六。ことごとく當つたのである。かの痩せた、眼のすずしい中年の女給は、ふたりの亭主を失つたと言はれて、みるみる頸をうなだれた。この不思議の的中は、みんなのうちで、私をいちばん興奮させた。すでに六本の徳利をからにしてゐたのである。このとき、犬の毛皮の胴着をつけた若い百姓が入口に現はれた。
 百姓は私のテエブルのすぐ隣りのテエブルに、こつちへ毛皮の背をむけて坐り、ウヰスキイと言つた。犬の毛皮の模樣は、ぶちであつた。この百姓の出現のために、私のテエブルの有頂天は一時さめた。私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちく悔いはじめたのである。もつともつと醉ひたかつた。こよひの歡喜をさらにさらに誇張してみたかつたのである。あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。盜まう。このウヰスキイを盜まう。女給たちは、私が金錢のために盜むのでなく、豫言者らしい突飛な冗談と見てとつて、かへつて喝采を送るだらう。この百姓もまた、醉ひどれの惡ふざけとして苦笑をもらすくらゐのところであらう。盜め! 私は手をのばし、隣りのテエブルのそのウヰスキイのコツプをとりあげ、おちついて呑みほした。喝采は起らなかつた。しづかになつた。百姓は私のはうをむいて立ちあがつた。外へ出ろ。さう言つて、入口のはうへ歩きはじめた。私も、にやにや笑ひながら百姓のあとについて歩いた。金色の額縁にをさめられてある鏡を通りすがりにちらと覗いた。私は、ゆつたりした美丈夫であつた。鏡の奧底には、一尺に二尺の笑ひ顏が沈んでゐた。私は心の平靜をとりもどした。自信ありげに、モスリンのカアテンをぱつとはじいた。
 THE HIMAWARI と黄色いロオマ字が書かれてある四角の軒燈の下で、私たちは立ちどまつた。女給四人は、薄暗い門口に白い顏を四つ浮かせてゐた。
 私たちは次のやうな爭論をはじめたのである。
 ――あまり馬鹿にするなよ。
 ――馬鹿にしたのぢやない。甘えたのさ。いいぢやないか。
 ――おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。
 私は百姓の顏を見直した。短い角刈にした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼の三白眼と、蒼黒い皮膚であつた。身丈は私より確かに五寸はひくかつた。私は、あくまで茶化してしまはうと思つた。
 ――ウヰスキイが呑みたかつたのさ。おいしさうだつたからな。
 ――おれだつて呑みたかつた。ウヰスキイが惜しいのだ。それだけだ。
 ――君は正直だ。可愛い。
 ――生意氣いふな。たかが學生ぢやないか。つらにおしろいをぬたくりやがつて。
 ――ところが僕は、易者だといふことになつてゐる。豫言者だよ。驚いたらう。
 ――醉つたふりなんかするな。手をつゐてあやまれ。
 ――僕を理解するには何よりも勇氣が要る。いい言葉ぢやないか。僕はフリイドリツヒ・ニイチエだ。
 私は女給たちのとめて呉れるのを、いまかいまかと待つてゐた。女給たちはしかし、そろつて冷い顏して私の毆られるのを待つてゐた。そのうちに私は毆られた。右のこぶしが横からぐんと飛んで來たので、私は首筋を素早くすくめた。十間ほどふつとんだ。私の白線の帽子が身がはりになつて呉れたのである。私は微笑みつつ、わざとゆつくりその帽子を拾ひに歩きはじめた。毎日毎日のみぞれのために、道はとろとろ溶けてゐた。しやがんで、泥にまみれた帽子を拾つたとたんに、私は逃げやうと考へた。五圓たすかる。別のところで、もいちど呑むのだ。私は二あし三あし走つた。滑つた。仰向にひつくりかへつた。踏みつぶされた雨蛙の姿に似てゐたやうであつた。自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになつてゐる。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられてゐた。誰ひとり味方がない。その確信が私の兇暴さを呼びさましたのである。
 ――お禮をしたいのだ。
 せせら笑つてさう言つてから、私は手袋を脱ぎ捨て、もつと高價なマントをさへ泥のなかへかなぐり捨てた。私は自身の大時代なせりふとみぶりにやや滿足してゐた。誰かとめて呉れ。
 百姓は、もそもそと犬の毛皮の胴着を脱ぎ、それを私に煙草をめぐんで呉れた美人の女給に手渡して、それから懷のなかへ片手をいれた。
 ――汚い眞似をするな。
 私は身構へて、さう注意してやつた。
 懷から一本の銀笛が出た。銀笛は軒燈の燈にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失つた中年の女給に手渡された。
 百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうへでなく、眞實、私はこの百姓を殺さうと思つた。
 ――出ろ。
 さう叫んで、私は百姓の向ふ臑を泥靴で力いつぱいに蹴あげた。蹴たふして、それから澄んだ三白眼をくり拔く。泥靴はむなしく空を蹴つたのである。私は自身の不恰好に氣づいた。悲しく思つた。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまつかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳朶から頬にかけてぴしやつと平手が命中した。私は泥のなかに兩手をついた。とつさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かつた。路傍の白楊の杙であつた。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい聲をたてて泣かう泣かうとあせつたけれど、あはれ、一滴の涙も出なかつた。

       くろんぼ

 くろんぼは檻の中にはひつてゐた。檻の中は一坪ほどのひろさであつて、まつくらい奧隅に、丸太でつくられた腰掛がひとつ置かれてゐた。くろんぼはそこに坐つて、刺繍をしてゐた。このやうな暗闇のなかでどんな刺繍ができるものかと、少年は拔けめのない紳士のやうに、鼻の兩わきへ深い皺をきざみこませ口まげてせせら笑つたものである。
 日本チヤリネがくろんぼを一匹つれて來た。村は、どよめいた。ひとを食ふさうである。まつかな角が生えてゐる。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まつたくそれを信じないのであつた。少年は思ふのだ。村のひとたちも心から信じてそんな噂をしてゐるのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしてゐるゆゑ、こんなときにこそ勝手な傳説を作りあげ、信じたふりして醉つてゐるのにちがひない。少年は村のひとたちのそんな安易な嘘を聞くたびごとに、齒ぎしりをし耳を覆ひ、飛んで彼の家へ歸るのであつた。少年は村のひとたちの噂話を間拔けてゐると思ふのだ。なぜこのひとたちは、もつとだいじなことがらを話し合はないのであらう。くろんぼは、雌ださうではないか。
 チヤリネの音樂隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣傳しつくすことができた。一本道の兩側に三丁ほど茅葺の家が立ちならんでゐるだけであつたのである。音樂隊は、村のはづれに出てしまつてもあゆみをとめないで、螢の光の曲をくりかへしくりかへし奏しながら菜の花畠のあひだをねつてあるいて、それから田植まつさいちゆうの田圃へ出て、せまい畦道を一列にならんで進み、村のひとたちをひとりも見のがすことなく浮かれさせ橋を渡つて森を通り拔けて、半里はなれた隣村にまで行きつゐてしまつた。
 村の東端に小學校があり、その小學校のさらに東隣りが牧場であつた。牧場は百坪ほどのひろさであつてオランダげんげが敷きつめられ、二匹の牛と半ダアスの豚とが遊んでゐた。チヤリネはこの牧場に鼠色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋に移轉したのである。
 夜、村のひとたちは頬被りして二人三人づつかたまつてテントのなかにはひつていつた。六、七十人のお客であつた。少年は大人たちを毆りつけては押しのけ押しのけ、最前列へ出た。まるい舞臺のぐるりに張りめぐらされた太いロオプに顎をのせかけて、じつとしてゐた。ときどき眼を輕くつぶつて、うつとりしたふりをしてゐた。
 かるわざの曲目は進行した。樽。メリヤス。むちの音。それから金襴。痩せた老馬。まのびた喝采。カアバイト。二十箇ほどのガス燈が小屋のあちこちにでたらめの間隔をおいて吊され、夜
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング