ある。さがしてもさがしても見つからぬのである。學校は、しんとなつた。授業がはじまつたのであらう。第二課、アレキサンドル大王と醫師フイリツプ。むかしヨーロツパにアレキサンドル大王といふ英雄があつた。少女の朗朗と讀みあげる聲をはつきり聞いた。少年は、うごかなかつた。少年は信じてゐた。あのくろんぼは、ただの女だ。ふだんは檻から出て、みんなと遊んでゐるのにちがひない。水仕事をしたり、煙草をふかしたり、日本語で怒つたり、そんな女だ。少女の朗讀がをはり、教師のだみ聲が聞えはじめた。信頼は美徳であると思ふ。アレキサンドル大王はこの美徳をもつてゐたがために、一命をまつたうしたやうであります。みなさん。少年は、まだうごかずにゐた。ここにゐないわけはない。檻は、きつとからつぽの筈だ。少年は肩を固くした。かうして覗いてゐるうちに、くろんぼは、こつそりおれのうしろにやつて來て、ぎゆつと肩を抱きしめる。それゆゑ背後にも油斷をせず、抱きしめられるに恰好のいいやうに肩を小さく固くしたのであつた。くろんぼは、きつと刺繍した日の丸の旗をくれるにちがひない。そのときおれは、弱味を見せずかう言つてやる。僕で幾人目だ。
 く
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