この女のひとが、私たちのテエブルに寄って来て、私の事を先生と呼んだので、私は北さんの手前もあり甚《はなは》だ具合いのわるい思いをした。北さんは、私の狼狽《ろうばい》に気がつかない振りをして、女のひとに、
「太宰先生は、君たちに親切ですかね?」とニヤニヤ笑いながら尋ねるのである。女のひとは、まさかその人は私の昔からの監督者だとは知らないから、「ええ、たいへん親切よ」なぞと、いい加減のふざけた口をきくので私は、ハラハラした。その日、北さんは、一つの相談を持って来たのである。相談というよりは、命令といったほうがよいかも知れない。北さんと一緒に故郷の家を訪れてみないかというのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に在《あ》る。私は、すでに十年、故郷を見なかった。十年前に、或《あ》る事件を起して、それからは故郷に顔出しのできない立場になっていたのである。
「兄さんから、おゆるしが出たのですか?」私たちはトンカツ屋で、ビイルを飲みながら話した。「出たわけじゃ無いんでしょう。」
「それは、兄さんの立場として、まだまだ、ゆるすわけにはいかない。だから、それはそれとして、私の一存であなたを連
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