私はなぜ何々主義者になったか」などという思想発展の回想録或いは宣言書を読んでも、私には空々《そらぞら》しくてかなわない。彼等がその何々主義者になったのには、何やら必ず一つの転機というものがある。そうしてその転機は、たいていドラマチックである。感激的である。
私にはそれが嘘《うそ》のような気がしてならないのである。信じたいとあがいても、私の感覚が承知しないのである。実際、あのドラマチックな転機には閉口《へいこう》するのである。鳥肌立つ思いなのである。
下手《へた》なこじつけに過ぎないような気がするのである。それで私は、自分の思想の歴史をこれから書くに当って、そんな見えすいたこじつけだけはよそうと思っている。
私は「思想」という言葉にさえ反撥を感じる。まして「思想の発展」などという事になると、さらにいらいらする。猿芝居《さるしばい》みたいな気がして来るのである。
いっそこう言ってやりたい。
「私には思想なんてものはありませんよ。すき、きらいだけですよ。」
私は左に、私の忘れ得ぬ事実だけを、断片的に記そうと思う。断片と断片の間をつなごうとして、あの思想家たちは、嘘の白々しい説明に憂身《うきみ》をやつしているが、俗物どもには、あの間隙《かんげき》を埋めている悪質の虚偽の説明がまた、こたえられずうれしいらしく、俗物の讃歎と喝采《かっさい》は、たいていあの辺で起るようだ。全くこちらは、いらいらせざるを得ない。
「ところで、」と俗物は尋ねる。「あなたのその幼時のデモクラシイは、その後、どんな形で発展しましたか。」
私は間《ま》の抜けた顔で答える。
「さあ、どうなりましたか、わかりません。」
×
私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違いない。
私は、無智の、食うや食わずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られはじめたのは、曾祖父|惣助《そうすけ》の時代からであった。その頃、れいの多額納税の貴族院議員有資格者は、一県に四五人くらいのものであったらしい。曾祖父は、そのひとりであった。昨年、私は甲府市のお城の傍の古本屋で明治初年の紳士録をひらいて見たら、その曾祖父の実に田舎くさいまさしく百姓姿の写真が掲載せられていた。この曾祖父は養子であった。祖父も養子であっ
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