苦悩の年鑑
太宰治

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)狐《きつね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明治天皇|崩御《ほうぎょ》の時の思い出である。
−−

 時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐《きつね》が乗ってるみたいと言うのではなかろうか。
 いまは私の処女作という事になっている「思い出」という百枚ほどの小説の冒頭は、次のようになっている。
「黄昏《たそがれ》のころ私は叔母《おば》と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着ていた。その時のほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、いきがみさま、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟《つぶや》いたような気がする。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものでない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったのだろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。」
 これは明治天皇|崩御《ほうぎょ》の時の思い出である。私は明治四十二年の夏の生れであるから、この時は、かぞえどしの四歳であった筈《はず》である。
 またその「思い出」という小説の中には、こんなのもある。
「もし戦争が起ったなら。という題を与えられて、地震雷火事|親爺《おやじ》、それ以上に怖《こわ》い戦争が起ったなら先《ま》ず山の中へでも逃げ込もう、逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。此《こ》の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。どういう気持で之《これ》を書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言った。次席訓導は手帖へ、『好奇心』と書き込んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが、人間というものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。そう思う、と私はもじもじしながら答えた。私はいったいに口が重い方であった。それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながら、どうして給料が違うのだ、と彼に問われて私は暫《しばら》く考えた。そして、それは仕事がちがうからでないか、と答えた。鉄縁の
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング