に一つ、その酒なるものを飲んで置こう、何事も、経験してみなくては損である、実行しよう、という変な如何《いか》にも小人のもの欲しげな精神から、配給の酒もとにかくいただく、ビヤホオルというところへも一度突撃して、もまれてみたい、何事にも負けてはならぬ、おでんやというものも一つ、試みたい、カフェというところも話には聞いているが、一たいどんな具合いか、いまのうちに是非実験をしてみたい、などというつまらぬ向上心から、いつのまにやら一ぱしの酒飲みになって、お金の無い時には、一目盛の酒を惜しみ、茶柱の立ったウイスキイを喜び、もう、やめられなくなっている人たちも、かなり多いのではないかと私には思われる。とかく小人は、度しがたいものである。
 たまに酒の店などへ行ってみても、実に、いやな事が多い。お客のあさはかな虚栄と卑屈、店のおやじの傲慢《ごうまん》貪慾《どんよく》、ああもう酒はいやだ、と行く度毎に私は禁酒の決意をあらたにするのであるが、機が熟さぬとでもいうのか、いまだに断行の運びにいたらぬ。
 店へはいる。「いらっしゃい」などと言われて店の者に笑顔で迎えられたのは、あれは昔の事だ。いまは客のほうで笑顔をつくるのである。「こんにちは」と客のほうから店のおやじ、女中などに、満面卑屈の笑をたたえて挨拶して、そうして、黙殺されるのが通例になっているようである。念いりに帽子を取ってお辞儀をして、店のおやじを「旦那」と呼んで、生命保険の勧誘にでも来たのかと思わせる紳士もあるが、これもまさしく酒を飲みに来たお客であって、そうして、やはり黙殺されるのが通例のようになっている。更に念いりな奴は、はいるなりすぐ、店のカウンタアの上に飾られてある植木鉢をいじくりはじめる。「いけないねえ、少し水をやったほうがいい。」とおやじに聞えよがしに呟《つぶや》いて、自分で手洗いの水を両手で掬《すく》って来て、シャッシャと鉢にかける。身振りばかり大変で、鉢の木にかかる水はほんの二、三滴だ。ポケットから鋏《はさみ》を取り出して、チョンチョンと枝を剪《き》って、枝ぶりをととのえる。出入りの植木屋かと思うとそうではない。意外にも銀行の重役だったりする。店のおやじの機嫌をとりたい為に、わざわざポケットに鋏を忍び込ませてやって来るのであろうが、苦心の甲斐《かい》もなく、やっぱりおやじに黙殺されている。渋い芸も派手な芸も、あの手もこの手も、一つとして役に立たない。一様に冷く黙殺されている。けれどもお客も、その黙殺にひるまず、なんとかして一本でも多く飲ませてもらいたいと願う心のあまりに、ついには、自分が店の者でも何でも無いのに、店へ誰かはいって来ると、いちいち「いらっしゃあい」と叫び、また誰か店から出て行くと、必ず「どうも、ありがとう」とわめくのである。あきらかに、錯乱、発狂の状態である。実にあわれなものである。おやじは、ひとり落ちつき、
「きょうは、鯛《たい》の塩焼があるよ。」と呟く。
 すかさず一青年は卓をたたいて、
「ありがたい! 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はないのである。高いだろうなあ、そいつは。おれは今迄、鯛の塩焼なんて、たべた事がない。けれども、いまは大いに喜んだふりをしなければならぬ。つらいところだ、畜生め! 「鯛の塩焼と聞いちゃ、たまらねえや。」実際、たまらないのである。
 他のお客も、ここは負けてはならぬところだ。われもわれもと、その一皿二円の鯛の塩焼を注文する。これで、とにかく一本は飲める。けれども、おやじは無慈悲である。しわがれたる声をして、
「豚の煮込《にこ》みもあるよ。」
「なに、豚の煮込み?」老紳士は莞爾《かんじ》と笑って、「待っていました。」と言う。けれども内心は閉口している。老紳士は歯をわるくしているので、豚の肉はてんで噛めないのである。
「次は豚の煮込みと来たか。わるくないなあ。おやじ、話せるぞ。」などと全く見え透いた愚かなお世辞を言いながら、負けじ劣らじと他のお客も、その一皿二円のあやしげな煮込みを注文する。けれども、この辺で懐中心細くなり、落伍《らくご》する者もある。
「ぼく、豚の煮込み、いらない。」と全く意気悄沈《いきしょうちん》して、六号活字ほどの小さい声で言って、立ち上り、「いくら?」という。
 他のお客は、このあわれなる敗北者の退陣を目送し、ばかな優越感でぞくぞくして来るらしく、
「ああ、きょうは食った。おやじ、もっと何か、おいしいものは無いか。たのむ、もう一皿。」と血迷った事まで口走る。酒を飲みに来たのか、ものを食べに来たのか、わからなくなってしまうらしい。
 なんとも酒は、魔物である。



底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(昭和64)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰
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