みんなが、おや、兄さん、と一緒に叫んで腰を浮かせた。立ちあがって、ちょっとかれに近づき、失礼いたします。久保田先生ではございませんか。私は、ことし帝大の文科を卒業いたします者で、少しは原稿も売れてまいりましたが、未だほとんど無名でございます。これから、よろしく、教えて下さい。直立不動の姿勢でもってそうお願いしてしまったので、商人、いいえ人違いですと鼻のさきで軽く掌を振る機会を失い、よし、ここは一番、そのくぼたとやらの先生に化けてやろうと、悪事の腹を据《す》えたようである。
――ははは。ま。掛けたまえ。
――はっ。
――のみながら。
――はっ。
――ひとつ。
――はっ。という工合いに、兵士の如く肩をいからせ、すすめられた椅子に腰をおろして、このようなところで先生にお逢いするとは実もって意外である。先生は毎晩ここにおいでになるのでしょうか。私は、先夜、先生の千人風呂という作品を拝誦《はいしょう》させていただきましたが、やはり興奮いたしまして、失礼ながらお手紙さしあげた筈《はず》でございますが。
――あれは君、はずかしいものだよ。
――しつれいいたしました。私の記憶ちがいでございました。千人風呂は葛西《かさい》善蔵氏の作品でございました。
――まったくもって。
わけのわからぬ問答に問答をかさねて、そのうちに、久保田氏は、精神とかジャンルとか現象とかのこむずかしい言葉を言い出し、若い作家の読書力減退についてのお説教がはじまり、これは、まさしく久保田万太郎なのかもしれないなどと思ったら酔いも一時にさめはて、どうにも、つまらなくなって来て、蹌踉《そうろう》と立ちあがり、先生、それではごめん下さい。これから旅に出るのです。ええ、このお金がなくなってしまうところまで、と言いつつ内ポケットから二三枚の十円紙幣をのぞかせて、見せてやって、外へ出た。
あああ。今夜はじつに愉快であった。大川へはいろうか。線路へ飛び込もうか。薬品を用いようか。新内と商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄に堕ちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒《なにとぞ》して、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなければ。よこはまほんもく二円はどうだ。いやならやめろ。二円おんの字、承知のすけ。ぶんぶん言って疾進してゆく、自動車の奥隅で、あっ、あっと声を放って泣いていた。今は亡き、畏友、笠井一もへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。はじめに意図して置いたところだけは、それでも、言って知らせてあげよう。私は、日本の或る老大家の文体をそっくりそのまま借りて来て、私、太宰治を語らせてやろうと企てた。自己喪失症とやらの私には、他人の口を借りなければ、われに就いて、一言一句も語れなかった。たち拠らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折《ようせつ》の作家の人となりを語り、そうして、その縊死のあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この「狂言の神」という一篇の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、もはやどうでもよくなった。文章に一種異様の調子が出て来て、私はこのまま順風を一ぱい帆にはらんで疾駆する。これぞ、まことのロマン調。すすまむ哉《かな》。あす知れぬいのち。自動車は、本牧の、とあるホテルのまえにとまった。ナポレオンに似たひとだな、と思っていたら、やがてその女のひとの寝室に案内され枕もとを見ると、ナポレオンの写真がちゃんと飾られていた。誰しもそう思うのだなと、やっとうれしく、あたたかくなって来た。
その夜、ナポレオンは、私の知らない遊びかたを教えて呉れた。
あくる朝は、雨であった。窓をひらけば、ホテルの裏庭。みどりの草が一杯に生えて、牧場に似ていた。草はらのむこうには、赤濁りに濁った海が、低い曇天に押しつぶされ、白い波がしらも無しに、ゆらりゆらり、重いからだをゆすぶっていて、窓のした、草はらのうえに捨てられてある少し破れた白足袋は、雨に打たれ、女の青い縞《しま》のはんてんを羽織って立っている私は、錐《きり》で腋《わき》の下を刺され擽《くす》ぐられ刺されるほどに、たまらない思いであった。ハクランカイをごらんなさればよろしいに、と南国|訛《なま》りのナポレオン君が、ゆうべにかわらぬ閑雅《かんが》の口調でそうすすめて、にぎやかの万国旗が、さっと脳裡《のうり》に浮んだが、ばか、大阪へ行く、京都へも行く、奈良へも行く、新緑
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