れば、うれい無きに似たりとか。その二人の女のうち笹眉《ささまゆ》をひそめて笑う小柄のひとに、千万の思いをこめて見つめる私の瞳の色が、了解できずに終ったようだ。ひらっと、できるだけ軽快に身をひるがえして雨の中へおどり出た。つばめのようにはいかなかった。あやうく滑ってころぶところであった。ふりかえりたいな。よせ! すぐ真向いの飲食店へさっさとはいった。薄暗い食堂の壁には、すてきに大きい床屋鏡がはめこまれていて、私の顔は黒眼がち、人なつかしげに、にこにこしていた。意外にも福福しい顔であったのだ。一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。君、茶化してしまえないものがあったのである。呑んでも呑んでも酔えなかった。信じ給え。鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それゆえに高雅、車夫馬丁を常客とする悪臭ふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋の葱《ねぎ》をつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもとをたずねた。かれの、はっきりすぐれたる或る一篇の小説に依り、私はかれと話し合いたく願っていた。相州《そうしゅう》鎌倉二階堂。住所も、忘れてはいなかった。三度、ながい手紙をさしあげて、その都度、あかるい御返事いただいた。私がその作家を好きであるのと丁度おなじくらいに、その作家もまた私を好きなのだ、といつのまにか、ひとりできめてしまっていた。のこり少い時間である。仕合せのことに用いなければいけない。私は、一秒の猶予《ゆうよ》もなしに、態度をきめた。そのときの私には、深田氏訪問以上の仕合せを考案しているいとまがなかった。雨はあがり、雲は矢のように疾駆し、ところどころ雲の切れま、洗われて薄い水いろの蒼空《あおぞら》が顔を見せて、風は未だにかなり勁く、無法者、街々を走ってあるいていたが、私も負けずに風にさからってどんどん大股であるいてやった。恥ずかしいほどの少年になってしまった。千里の馬には千里の糧。たわむれに呟《つぶや》いて、たばこ屋に立ち寄り、キャメルという高価の外国煙草を二個も買い、不良少年のふりをして、こっそり吸っては、あわててもみ消す。腰のまがった小さい巡査が、両手をうしろに組んで街道のまんなかをぶらりぶらり、風に吹かれて歩いていた。私は二階堂への路順《みちじゅん》をたずねた。私は慧眼《けいがん》。この老巡査は、はたして忘れ得ぬ人たちの中のひとりであった。私の手を引かんばかり、はにかむような咄吃《とつきつ》の口調で繰りかえし繰りかえし教えて呉れた。なに、二階堂はすぐそのさきに見えているのだ。老憊《ろうはい》の一生活人へ、まこと敬虔《けいけん》の心でお礼を申し述べ、教えられたとおりの路をあやまたずに三曲りして、四曲りした角に、なんなく深田久弥のつつましき門札を見つけた。かねて思いはかっていたよりも十倍くらいきちんとしたお宅だったので、これは、これは、とひとりごとを言いながら、内心うれしく、微笑とめてもとまらなかった。石の段段をのぼり、字義どおりに門をたたいて、出て来た女中に大声で私の名前を知らせてやった。うれしや、主人は、ご在宅である。右手の甲で額の汗をそっと拭《ぬぐ》うた。女中に案内されて客間にとおされ、わざと秀才の学生らしく下手にきちんと坐って、芝生の敷きつめられたお庭を眺め、筆一本でも、これくらいの生活ができるのだ、とずいぶん気強く思ったものだ。こよい死ぬる者にとってはふさわしからぬ安堵《あんど》の溜息がほっと出て、かるく狼狽《ろうばい》していたとき、蓬髪花顔《ほうはつかがん》のこの家のあるじが写真のままの顔して出て来られて、はじめての挨拶をかわしたのであったが、私には、はじめての人のようにも思われず、おととしの春にふと私から遠ざかっていった友人の久保君も、三四年まえのたしか今頃の季節に、きのう深田久弥に逢って来たと言い、日本人の作家には全く類がないくらいの、文学でないホオム・ライフを持っていて、あまり温順なので、こちらが腹の中で深田久弥の間抜野郎と呟いて笑っているようなひどくいけない錯覚がひらひらちらついて困惑するほど、それほどたまらなく善良の人がらなのだよ、と私に教えて呉れたことがあったけれど、いま私も、こうして対坐して、ゆくりなく久保君の身のうえと、それから、「深田久弥の間抜野郎」を思い出し、悖礼《はいれい》の瘠狗《せきく》、千石船に乗った心地で、ずいぶん油断をしてしまった。いまさら、なにも、論戦しなければならぬ必要もなし、すべての言葉がめんどうくさくて、ながいこと二人、庭を眺めてばかりいた。私は形而下《けいじか》的にも四肢を充分にのばして、そうして、今のこの私の豊沃《ほうよく》を、いったい、誰に教えてあげようか
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