れた。狂気の前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定してもらって外へ出た。たちまち烈風。スプリングの裾《すそ》がぱっとめくりあげられ、一握の小砂利が頬めがけて叩きつけられぱちぱち爆《は》ぜた。ぐっと眼をつぶって、今夜死ぬるとわれに囁《ささや》き、みんながみんな遠くへ去っていって、世界に私がひとりだけ居るような気持ちで、ながいこと道路のまんなかに立ちつくした。眼をあいたときには、まったく意志を失い、幽霊のように歩いて、磯《いそ》へ出た。真くろい雲が充満し、空は暗くて低かった。見渡すかぎり、人の影がなかった。腐りかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点をいつまでもうろうろ歩きまわり、眼のまえの海の形容詞を油汗ながして捜査していた。ああ、作家をよしたい。もがきあがいて捜しあてた言葉は、「江の島の海は、殺風景であった」私はぐるっと海へ背をむけた。ここの海は浅く、飛びこんだところで、膝小僧をぬらすくらいのものであろう。私は、しくじりたくなかった。よしんばしくじっても、そのあと、そ知らぬふりのできるような賢明の方法を択《えら》ばなければ。未遂で人に見とがめられ、縄目《なわめ》の恥辱を受けたくなかった。それからどれほど歩いたのか。百種にあまる色さまざまの計画が両国の花火のようにぱっとひらいては消え、ひらいては消え、これときまらぬままに、ふらふら鎌倉行の電車に乗った。今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使いたかった。ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧《ちえ》の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣《ごうきゅう》でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒《ふんぬ》でもない、諦観でもない、秋涼でもない、平和でもない、後悔でもない、沈思でもない、打算でもない、愛でもない、救いでもない、言葉でもってそんなに派手に誇示できる感情の看板は、ひとつも持ち合せていなかった。私は、深刻でなかった。電車の隅で一賤民のごとく寒さにふるえて眼玉をきょろきょろうごかしていただけのことであったのである。途中、青松園という療養院
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