いジレッタント同志で廻覧雑誌を作りました。当時、歌人を志していた高校生の兄が大学に入る為《ため》帰省し、ぼくの美文的フォルマリズムの非を説いて、子規の『竹の里歌話』をすすめ、『赤い鳥』に自由詩を書かせました。当時作る所の『波』一篇は、白秋《はくしゅう》氏に激賞され、後選ばれて、アルス社『日本児童詩集』にのりました。父が死んだ年、兄は某中学校に教べんを取りました。父の死は肺病の為でもあったのですが、震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし、又祖父を連れてくる際の、口論の為、叔父の首をくくらし、また叔父の死の一因であった従弟《いとこ》の狂気等も原因して居たかも知れません。加えて、兄のソシャリストになった心痛もあったでしょう。事実兄は、ぼくを中学の寄宿舎に置くと、一家を連れて上京、自分は××組合の書記長になり、学校にストライキを起しくびになり、お袋達が鎌倉に逃げかえった後も、豚箱から、インテリに活動しました。同志の一人はうちに来て、寄宿から帰ったぼくと姉を兄貴への心服の上に感化しました。三・一五が起り、兄は転向、結婚、嫁と母の仲悪るく、兄夫婦はぼく達を置いて東京で暮していました。人道主義的なマルキストであり、感傷的な文学少年、数学の出来なかったぼくは、ひどい自涜《じとく》の為もあったのでしょう、学校に友達なく、全く一人で、姉、近所のW大生、小学時代の親友、兄夫婦も加えて、プリント雑誌『素描』を二年続けました。兄の運動の為、父の財産はなくなり、鎌倉の別荘は人に貸し、一家は東京に舞い戻り、兄夫婦も一緒になりました。中学の終りからテニスを始めていたぼくは、テニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで、長身、肥満、W高等学院、自涜の一年を消費した後、W大学ボート部に入りました。一年後ぼくはレギュラーになり、二年後、第十回オリンピック選手としてアメリカに行きました。当時二十歳、六尺、十九貫五百、紅顔の少年であります。ボートは大変|下手《へた》でした。先輩ばかりでちいさくなっていました。往復の船中の恋愛、帰ってきたぼくは歓迎会ずくめの有頂天さのあまり、多少神経衰弱だったのです。ぼくが帰国したとき、前年義姉を失った兄は、家に帰り、コンムニュスト、党資金局の一員でした。あにを熱愛していたぼくは、マルキシズムの理論的影響失せなかったぼくは、直に共鳴して、鎌倉の別荘を売ったぼくの学費を盗みだして
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