見解にたどりつきつつあります。君はいつも筆の先を尖《と》がらせてものかくでしょう。僕は君に初めて送る手紙のために筆の先をハサミで切りました。もちろんこのハサミは検閲官のハサミでありません。その上、君はダス・マンということを知っているでしょう。デル・マンではありません。だから僕は君の作品に於《おい》て作品からマンの加減乗除を考えません。自信を持つということは空中|楼閣《ろうかく》を築く如く愉快ではありませんか。ただそのために君は筆の先をとぎ僕はハサミを使い、そのときいささかの滞《とどこお》りもなく、僕も人を理解したと称します。法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで建立《こんりゅう》の可能性を確信できなかったそうです。それでいてこれは凡《およ》そ自信とは無関係と考えます。のみならず、彼は建立が完成されても、囲をとり払うとともに塔が倒れても、やはり発狂したそうです。こういう芸術体験上の人工の極致を知っているのは、おそらく君でしょう。それゆえ、あなたは表情さえ表現しようとする、当節誇るべき唯一のことと愚按《ぐあん》いたします。あなたが御病気にもかかわらず酒をのみ煙草を吸っていると聞きました。それであなたは朝や夕べに手洗をつかうことも誇るがいいでしょう。そういう精神が涵養《かんよう》されなかったために未だに日本新文学が傑作を生んでいない。あなたはもっと誇りを高く高くするがいい。永野喜美代。太宰治君。」
「わずかな興《きょう》を覚えた時にも、彼はそれを確める為《ため》に大声を発して笑ってみた。ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも、彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき、自らの悲歎に暮れたる侘《わび》しき姿を、ほれぼれと眺めた。取るに足らぬ女性の嫉妬《しっと》から、些《いささ》かの掠《かす》り傷を受けても、彼は怨《うら》みの刃《やいば》を受けたように得意になり、たかだか二万|法《フラン》の借金にも、彼は、(百万法の負債に苛責《さいな》まれる天才の運命は悲惨なる哉《かな》。)などと傲語《ごうご》してみる。彼は偉大なのらくら者、悒鬱《ゆううつ》な野心家、華美な薄倖児《はっこうじ》である。彼を絶えず照した怠惰の青い太陽は、天が彼に賦与《ふよ》した才能の半ばを蒸発させ、蚕食《さんしょく》した。巴里《パリ》、若《も》しくは日本高円寺の恐るべき生活の中に往々見出し得るこの種の『
前へ 次へ
全59ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング