、嘉七は能弁になっていた。
「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱いよい人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁《わら》が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている。」
かず枝は、なにか言いだしかけた。
「いや、いいんだ。おまえを非難しているんじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでも、おまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。おまえよりもっともっと学問があり、ずいぶん古い友だちでも、私の苦しさを知らなかった。私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ。」そう言ってやって微笑したら、かず枝は一瞬、得意になり、
「わかりました。もう、いいのよ。ほかのひとに聞えたら、たいへんじゃないの。」
「なんにも、わかっていないんだなあ。おまえには、私がよっぽどばかに見えているんだね。私は、ね、いま、自分でいい子になろうとしているところが、心のどこかの片隅に、やっぱりひそんでいるのではないかしら、とそれで苦しんでいるのだよ。おまえと一緒になって六、七年にもなるけれど、おまえは、いちども、いや、そんなことでおまえを非難しようとは思わない。むりもないことなのだ。おまえの責任ではない。」
かず枝は聞いていなかった。だまって雑誌を読みはじめていた。嘉七は、いかめしい顔つきになり、真暗い窓にむかって独りごとのように語りつづけた。
「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚《うぬぼ》れやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだ、おそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。けれども、私は、だまっていた。一ことの弁解もしなかった。私には、私としての信念があったのだ。けれども、それは、口に出して言っちゃいけないことだ。それでは、なんにもならなくなるのだ。私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。私は、そんなばかなのだ。私は、間違っていたかも知れないね。やはり、どこかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った屍臭《ししゅう》ふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。」窓は答える筈はなかった。
嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》して、ひたと両手合せた。祈る姿であった。みじんも、ポオズでなかった。
水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。
自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。
「寒いのね。こんなに寒いと思わなかったわ。東京では、もうセル着て歩いているひとだってあるのよ。」運転手にまで、身なりの申しわけを言っていた。「あ、そこを右。」
宿が近づいて、かず枝は活気を呈して来た。「きっと、まだ寝ていることよ。」こんどは運転手に、「ええ、もすこしさき。」
「よし、ストップ。」嘉七が言った。「あとは歩く。」そのさきは、路が細かった。
自動車を棄てて、嘉七もかず枝も足袋《たび》を脱ぎ、宿まで半丁ほどを歩いた。路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、
「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。
宿の老夫婦は、おどろいた。謂《い》わば、静かにあわてていた。
嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。
「それがねえ、おばさんのとこに行こうって、きかないのよ。芸術家って、子供ね。」自身の嘘に気がついていないみたいに、はしゃいでいた。東京はセル、をまた言った。
そっと老妻が二階へあがって来て、ゆっくり部屋の雨戸を繰りあけながら、
「よく来たねえ。」
と一こと言った。
そとは、いくらか明るくなっていて、まっ白な山腹が、すぐ眼のまえに現われた。谷間を覗《のぞ》いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。
「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみたいな。」
「だいじょうぶかい?」
「ああ、もうからだは、すっかりいいんだ。ふとったろう。」
そこへかず枝が、大きい火燵《こたつ》を自分で運んで持って来た。
「ああ、重い。おばさん、これ、おじさんのを借りたわよ。おじさんが持っていってもいいと言ったの。寒くって、かなやしない。」嘉七のほうに眼もくれず、ひとりで異様にはしゃいでいた。
ふたりきりになると急に真面目になり、
「あたし、疲れてしまいました。お風呂へはいって、それから、ひとねむり仕様と思うの。」
「したの野天風呂に行けるかしら。」
「ええ、行けるそうです。おじさんたちも、毎日はいりに行ってるんですって。」
主人が大きい藁《わら》ぐつをはいて、きのう降りつもったばかりの雪を踏みかため踏みかため路をつくってくれて、そのあとから嘉七、かず枝がついて行き、薄明の谷川へ降りていった。主人が持参した蓙《ござ》のうえに着物を脱ぎ捨て、ふたり湯の中にからだを滑り込ませる。かず枝のからだは、丸くふとっていた。今夜死ぬる物とは、どうしても、思えなかった。
主人がいなくなってから、嘉七は、
「あの辺かな?」と、濃い朝霧がゆっくり流れている白い山腹を顎でしゃくってみせた。
「でも、雪が深くて、のぼれないでしょう?」
「もっと下流がいいかな。水上の駅のほうには、雪がそんなになかったからね。」
死ぬる場所を語り合っていた。
宿にかえると蒲団《ふとん》が敷かれていた。かず枝は、すぐそれにもぐりこんで雑誌を読みはじめた。かず枝の蒲団の足のほうに、大きい火燵がいれられていて、温かそうであった。嘉七は、自分のほうの蒲団は、まくりあげて、テエブルのまえにあぐらをかき、火鉢にしがみつきながら、お酒を呑んだ。さかなは、鑵詰《かんづめ》の蟹《かに》と、干椎茸《ほししいたけ》であった。林檎《りんご》もあった。
「おい、もう一晩のばさないか?」
「ええ、」妻は雑誌を見ながら答えた。「どうでも、いいけど。でも、お金たりなくなるかも知れないわよ。」
「いくらのこってんだい?」そんなことを聞きながら、嘉七は、つくづく、恥かしかった。
みれん。これは、いやらしいことだ。世の中で、いちばんだらしないことだ。こいつはいけない。おれが、こんなにぐずぐずしているのは、なんのことはない、この女のからだを欲しがっているせいではなかろうか。
嘉七は、閉口であった。
生きて、ふたたび、この女と暮して行く気はないのか。借銭、それも、義理のわるい借銭、これをどうする。汚名、半気ちがいとしての汚名、これをどうする。病苦、人がそれを信じて呉れない皮肉な病苦、これをどうする。そうして、肉親。
「ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね。どうも、そうらしい。」
かず枝は、雑誌から眼を離さず、口早に答えた。
「そうよ、あたしは、どうせ気にいられないお嫁よ。」
「いや、そうばかりは言えないぞ。たしかにおまえにも、努力の足りないところがあった。」
「もういいわよ。たくさんよ。」雑誌をほうりだして、「理くつばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ。」
「ああ、そうか。おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。」嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。
なぜ、おれは嫉妬《しっと》しないのだろう。やはり、おれは、自惚《うぬぼ》れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、ものの感じかたをこそ、倨傲《きょごう》というのではなかろうか。そんなら、おれの考えかたは、みなだめだ。おれの、これまでの生きかたは、みなだめだ。むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。そんな嫉妬こそ、つつましく、美しいじゃないか。重ねて四つ、という憤怒《ふんぬ》こそ、高く素直なものではないか。細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみではないか。けれども、おれは、なんだ。みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借銭だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテエゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、ああいけない。
嘉七は、棍棒《こんぼう》ふりまわして、自分の頭をぐしゃと叩きつぶしたく思うのだ。
「ひと寝いりしてから、出発だ。決行、決行。」
嘉七は、自分の蒲団をどたばたひいて、それにもぐった。
よほど酔っていたので、どうにか眠れた。ぼんやり眼がさめたのは、ひる少し過ぎで、嘉七は、わびしさに堪《た》えられなかった。はね起きて、すぐまた、寒い寒いを言いながら、下のひとに、お酒をたのんだ。
「さあ、もう起きるのだよ。出発だ。」
かず枝は、口を小さくあけて眠っていた。きょとんと眼をひらいて、
「あ、もう、そんな時間になったの?」
「いや、おひるすこしすぎただけだが、私はもう、かなわん。」
なにも考えたくなかった。はやく死にたかった。
それから、はやかった。このへんの温泉をついでにまわってみたいからと、かず枝に言わせて、宿を立った。空もからり
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