た。主人は、養子らしかった。その老妻である。かず枝は、甘栗を買い求めた。嘉七はすすめて、もすこし多く買わせた。
 上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店《たな》の手代《てだい》と女中が藪入《やぶい》りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目《ひとめ》がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。
 向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。
「ね、あたし、こんな恰好をして、おばさん変に思わないかしら。」
「かまわないさ。ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって、水上のおばさんとこに行こうってきかないから、そのまま来ましたって言えば、それでいい。」
「それも、そうね。」けろっとしていた。
 すぐ、また言い出す。
「おばさん、おどろくでしょうね。」汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。
「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になりきょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペエジを繰った。
 嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。
 金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執《と》れるのだ。見ちゃ居られぬ。この女の自殺は、意味がない。
「おい、私は、いい子かね。」だしぬけに嘉七は、言い出した。「自分ばかり、いい子になろうと、しているのかね。」
 声が大きかったので、かず枝はあわて、それから、眉をけわしくしかめて怒った。嘉七は、気弱く、にやにや笑った。
「だけどもね、」おどけて、わざと必要以上に声を落して、「おまえは、まだ、そんなに不仕合せじゃないのだよ。だって、おまえは、ふつうの女だもの。わるくもなければよくもない、本質から、ふつうの女だ。けれども、私はちがう。たいへんな奴だ。どうやら、これは、ふつう以下だ。」
 汽車は赤羽をすぎ、大宮をすぎ、暗闇の中をどんどん走っていた。ウイスキイの酔もあり、また、汽車の速度にうながされて、嘉七は能弁になっていた。
「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱いよい人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁《わら》が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている。」
 かず枝は、なにか言いだしかけた。
「いや、いいんだ。おまえを非難しているんじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでも、おまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。おまえよりもっともっと学問があり、ずいぶん古い友だちでも、私の苦しさを知らなかった。私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ。」そう言ってやって微笑したら、かず枝は一瞬、得意になり、
「わかりました。もう、いいのよ。ほかのひとに聞えたら、たいへんじゃないの。」
「なんにも、わかっていないんだなあ。おまえには、私がよっぽどばかに見えているんだね。私は、ね、いま、自分でいい子になろうとしているところが、心のどこかの片隅に、やっぱりひそんでいるのではないかしら、とそれで苦しんでいるのだよ。おまえと一緒になって六、七年にもなるけれど、おまえは、
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