ずいぶん、いとしく思われた。あれくらいの分量で、まさか死ぬわけはない。ああ、あ。多少の幸福感を以《もっ》て、かず枝の傍に、仰向に寝ころがった。それ切り嘉七は、また、わからなくなった。
 二度目にめがさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな鼾《いびき》をかいていた。嘉七は、それを聞いていながら、恥ずかしいほどであった。丈夫なやつだ。
「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたりとも、生きちゃった。」苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。
 かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき黙ってつっ立って、尖《とが》った針の梢《こずえ》には、冷い半月がかかっていた。なぜか、涙が出た。しくしく嗚咽《おえつ》をはじめた。おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。
 突然、傍のかず枝が、叫び出した。
「おばさん。いたいよう。胸が、いたいよう。」笛の音に似ていた。
 嘉七は驚駭《きょうがく》した。こんな大きな声を出して、もし、誰か麓《ふもと》の路を通るひとにでも聞かれたら、たまったものでないと思った。
「かず枝、ここは、宿ではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」
 わかる筈《はず》がなかった。いたいよう、いたいようと叫びながら、からだを苦しげにくねくねさせて、そのうちにころころ下にころがっていった。ゆるい勾配《こうばい》が、麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、かず枝は、その幹にまつわりついて、
「おばさん、寒いよう。火燵《こたつ》もって来てよう。」と高く叫んでいた。
 近寄って、月光に照されたかず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかった。髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥《やまうば》の髪のように、荒く大きく乱れていた。
 しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努めた。つんのめり、這《は》いあがり、ずり落ち、木の根にすがり、土を掻《か》き掻き、少しずつ少しずつかず枝のからだを林の奥へ引きずりあげた。何時間、そのような、虫の努力をつづけていたろう。
 ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。
 そのとき、はっきり決心がついた。
 この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。
 夜明けが近くなって来た。空が白くなりはじめたのである。かず枝も、だんだんおとなしくなって来た。朝霧が、もやもや木立に充満している。
 単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。
 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取ってやりながら、
 おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。
 ひるすこし過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、よろめきながらも自分の濡れた着物を脱いで、かわかし、また、かず枝の下駄を捜しまわったり、薬品の空箱を土に埋めたり、かず枝の着物の泥をハンケチで拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。
 かず枝は、めをさまして、嘉七から昨夜のことをいろいろ聞かされ、
「とうさん、すみません。」と言って、ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。
 嘉七のほうは、もう歩けるようになっていたが、かず枝は、だめであった。しばらく、ふたりは坐ったまま、きょうこれからのことを相談し合った。お金は、まだ拾円ちかくのこっていた。嘉七は、ふたり一緒に東京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、また自動車で谷川温泉へかえり、おばさんに、よその温泉場で散歩して転んで、着物を汚したとか、なんとか下手《へた》な嘘を言って、嘉七が東京にさ
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