ばかりの若い百姓です。
そいつに召集令状が来て、まるでもう汽車に乗った事もないような田舎者《いなかもの》なのですから、私が青森の部隊の営門まで送りとどけてやったのですが、それが、入隊してないというのです。いったん、営門にはいって、それから、すぐにまたひょいと逃げ出したのでしょうか。
署長の願いというのは、とにかくあの圭吾は逃げ出したって他に行くところも無い。この吹雪の中を、幾日かかっても山越えして、家へ帰って来るに違いない。死にやしない。必ず家へ帰って来る。何せ、あれの嫁は、あれには不似合いなほどの美人なんだから、必ず家へ帰る。そこで、あなたに一つお願いがある。あなたは、あの夫婦の媒妁人《ばいしゃくにん》だった筈だし、また、かねてからあの夫婦は、あなたを非常に尊敬している。いや、ひやかしているのでは、ありません。まじめな話です。それで、今夜あなたは御苦労だが、あれの家へ行って、嫁によくよく説き聞かせ、決して悪いようにはせぬから、もし圭吾が家に帰って来たなら、こっそりあなたに知らせてくれるように、しっかりと言いつけてやって下さい。ここ二、三日中に、圭吾が見つかったならば、私は、圭吾に何の罰もかからないように取りはからう事が出来ます。何せこの大雪で、交通機関がめちゃ滅茶なのですから、私はあれが入隊におくれた理由を、そこは何とかうまく報告できるつもりです。脱走兵を出したとあっては、この町全体の不名誉です。この町の名誉のために、一つ御苦労でもたのむ、というような事でした。
私は署長と一緒に吹雪の中を、あれの家へ出掛けました。かなり遠いのです。どうも人間の一生には、いろいろな事があると思いましたよ。私のような兵役免除の丁種《ていしゅ》が、帝国軍人の妻たる者の心掛けを説こうというのは、どう考えたって少し無理ですよ。
あれの家の前で署長と無言で別れ、私はあれの家の土間にはいって行きました。あなたがこれまで東京に永くいらっしゃったと言っても、やはりこの土地の生れなのですから、このへんの農家の構造はご存じでしょう。土間へはいると、左手は馬小屋で、右手は居間と台所兼用の板敷の部屋で大きい炉《ろ》なんかあって、まあ、圭吾の家もだいたいあれ式なのです。
嫁はまだ起きていて、炉傍《ろばた》で縫い物をしていました。
「ほう、感心だのう。おれのうちの女房などは、晩げのめし食うとすぐに赤ん坊に添寝《そいね》して、それっきりぐうぐう大鼾《おおいびき》だ。夜なべもくそもありやしねえ。お前は、さすがに出征兵士の妻だけあって、感心だ、感心だ。」などと、まことに下手《へた》なほめ方をして外套《がいとう》を脱ぎ、もともと、もう礼儀も何も不要な身内の家なのですから、のこのこ上り込んで炉傍に大あぐらをかき、
「ばばちゃは、寝たか。」とたずねます。
圭吾には、盲目の母があるのです。
「ばばちゃは、寝て夢でも見るのが、一ばんの楽しみだべ。」と嫁は、縫い物をつづけながら少し笑って答えます。
「うん、まあそんなところかも知れない。お前も、なかなか苦労が多いの。しかし、いまの時代は、日本国中に仕合せな人は、ひとりもねえのだからな、つらくても、しばらくの我慢だ。何か思いに余る心配事でも起った時には、おれのところへ相談に来ればいいし、のう。」
「有難うごす。きょうはまた、どこからかのお帰りですか。おそいねす。」
「おれか? いや、どこの帰りでもねえ。まっすぐに、ここさ来たのだ。」
どうも私は駈引《かけひ》きという事がきらいで、いや、駈引きしたいと思っても、めんどうくさくて、とても出来ないたちですので、ちょっと気まずくても、ありのままを言う事にしているのです。そのために、思わぬ難儀が振りかかって来た事もありますが、しかし、駈引きして成功しても永続きはしないような気がするのです。
その時も、私は、下手な小細工《こざいく》をしたって仕様が無いと思って、「まっすぐに、ここさ来た」と本当の事を言ったのですが、嫁は別にそれを気にとめる様子も無く、あたらしい薪《まき》を二本、炉にくべて、また縫い物を続けます。
へんな事をおたずねするようですが、あなたと私とは小学校の同級生ですから、同じとしの三十七、いやもう二、三週間すると昭和二十一年になって、三十八。ところでどうです、このとしになっても、やはり、色気はあるでしょう、いや、冗談でなく、私はいつか誰かに聞いてみたいと思っていた事なのです。まさか、私は、このとおり頭が禿《は》げて、子供が四人もあって、手の皮なんかもこんなに厚くなって、ひびだらけでささくれ立って、こんな手で女の柔い着物などにさわったら、手の皮がひっかかっていけないでしょう、このようなていたらくで、愛だの恋だのを囁《ささや》く勇気は流石《さすが》にありませんが、しかし、色気と
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