うにはしないと言っている。あれは、ひとをだましたりなどしない人だ。この町の名誉のため、ここ二、三日中に圭吾が見つかりさえすれば、何とかうまく全然おかみのお叱《しか》りのないように取りはからうと言っている。署長もおれも、黙っている。この町の誰にも、絶対に言わぬ。どうか、たのむ。圭吾は、きっとお前のところへ、帰って来る。帰って来たら、もう何も考える事は要《い》らない、すぐにおれのところへ知らせに来てくれ。それが、だいいちに圭吾のため、お前のため、ばばちゃのため、祖先、子孫のためだ。」
 嫁は、顔色もかえず、縫い物をつづけながら黙って聞いていましたが、その時、肩で深く息をついて、
「なんぼう、馬鹿だかのう。」と言って、左手の甲で涙を拭きました。
「お前も、つらいところだ。それは重々、察している。しかし、いま日本では、お前よりも何倍もつらい思いをしているひとが、かず限りなくあるのだから、お前も、ここは、こらえてくれろ。必ず必ず、圭吾が帰って来たら、おれのところに知らせてくれ。たのむ! おれは今までお前たちに、ものを頼んだ事はいちども無かったが、こんどだけは、これ、このとおり、おれは、手をついてお前にお願いする。」
 私は、お辞儀をしました。吹雪の音にまじって、馬小屋のほうから小さい咳《せき》ばらいが聞えました。私は顔を挙げて、
「いま、お前は、咳をしたか。」
「いいえ。」嫁は私の顔をけげんそうに見て、静かに答えます。
「それでは、いまの咳は誰のだ。お前には、聞えなかったか。」
「さあ、べつに、なんにも。」と言って、うすら笑いをしました。
 私は、その時、なぜだか、全身鳥肌立つほど、ぞっとしました。
「来てるんでないか。おい、お前、だましてはだめだ。圭吾は、あの馬小屋にいるんでないか?」
 私のあわてて騒ぐ様子が、よっぽど滑稽《こっけい》なものだったと見えて、嫁は、膝の上の縫い物をわきにのけ、顔を膝に押しつけるようにして、うふふふと笑い咽《むせ》んでしまいました。しばらくして顔を挙げ、笑いをこらえているように、下唇を噛《か》んで、ぽっと湯上りくらいに赤らんでいる顔を仰向けて、乱れた髪を掻《か》きあげ、それから、急にまじめになって私のほうにまっすぐに向き直り、
「安心してけせ。わたしも、馬鹿でごいせん。来たら来たと、かならずあなたのところさ、知らせに行きます。その時は、どうか、よろしくお願いします。」
「おう、そうか、」と私は苦笑して、「さっきの咳ばらいは、おれの空耳であったべな。こうなると、どうも、男よりも女子《おなご》のほうが、しっかりしている。それでは、どうか、よろしくたのむよ。」
「はあ、承知しました。」たのもしげに、首肯《うなず》きます。
 私は、ほっとして、それでは帰ろうかと腰を浮かしかけた途端に、馬小屋のほうで、
「馬鹿! 命をそまつにするな!」と、あきらかに署長の声です。続いて、おそろしく大きい物音が。

 名誉職は、そこまで語って、それから火鉢の火を火箸《ひばし》でいじくりながら、しばらく黙っていた。
「で? どうしたのです。」と私は、さいそくした。「いたのですか?」
「いるも、いないも、」と言って、彼は火箸をぐさと灰に深く突き刺し、「二日も前から来ていたんですよ。ひどいじゃありませんか。二日も前に帰って来て、そうして、嫁と相談して、馬小屋の屋根裏の、この辺ではマギと言っていますが、まあ乾草や何かを入れて置くところですな、そこへ隠れていたのです。もちろん、嫁の入智慧《いれぢえ》です。母は盲目だし、いい加減にだまして、そうしてこっそり馬小屋のマギに圭吾をかくし、三度々々の食事をそこへ運んでいたのだそうですよ。あとで、圭吾がそう言っていました。なに、あの嫁なんか一言も何も言いません。いまもって、知らん振りです。あの晩に、私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をして、そうして、男一匹、手をついてお願いしたのにまあ、あの落ちつき払った顔。かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで、申しわけ無くなって、あなた、馬小屋の梁《はり》に縄をかけ、首をくくって死のうとしたのです。
 署長は私と別れてからも商売柄、その辺をうろついて見張っていたのでしょう、馬小屋でたしかに人の気配がするので、土間からそっと覗《のぞ》いてみると、圭吾がぶらりです。そこでもって、馬鹿! 命をそまつにするな! と叫び、ひきずりおろしたところへ、私たちが駈けつけたというわけでしたが、その、署長の、馬鹿! という声と共に私たちは立ち上り、思わず顔を見合せ、その時の、嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好《かっこう》は、いやもう、ほとんど神《しん》の如《ごと》くでした。おそろしいものです。そうして、私たちは馬小屋へ駈けつけ、圭吾は署
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