よろしくお願いします。」
「おう、そうか、」と私は苦笑して、「さっきの咳ばらいは、おれの空耳であったべな。こうなると、どうも、男よりも女子《おなご》のほうが、しっかりしている。それでは、どうか、よろしくたのむよ。」
「はあ、承知しました。」たのもしげに、首肯《うなず》きます。
 私は、ほっとして、それでは帰ろうかと腰を浮かしかけた途端に、馬小屋のほうで、
「馬鹿! 命をそまつにするな!」と、あきらかに署長の声です。続いて、おそろしく大きい物音が。

 名誉職は、そこまで語って、それから火鉢の火を火箸《ひばし》でいじくりながら、しばらく黙っていた。
「で? どうしたのです。」と私は、さいそくした。「いたのですか?」
「いるも、いないも、」と言って、彼は火箸をぐさと灰に深く突き刺し、「二日も前から来ていたんですよ。ひどいじゃありませんか。二日も前に帰って来て、そうして、嫁と相談して、馬小屋の屋根裏の、この辺ではマギと言っていますが、まあ乾草や何かを入れて置くところですな、そこへ隠れていたのです。もちろん、嫁の入智慧《いれぢえ》です。母は盲目だし、いい加減にだまして、そうしてこっそり馬小屋のマギに圭吾をかくし、三度々々の食事をそこへ運んでいたのだそうですよ。あとで、圭吾がそう言っていました。なに、あの嫁なんか一言も何も言いません。いまもって、知らん振りです。あの晩に、私が行って嫁にあれほど腹の底を打ち割った話をして、そうして、男一匹、手をついてお願いしたのにまあ、あの落ちつき払った顔。かえって馬小屋のマギで聞いていた圭吾のほうで、申しわけ無くなって、あなた、馬小屋の梁《はり》に縄をかけ、首をくくって死のうとしたのです。
 署長は私と別れてからも商売柄、その辺をうろついて見張っていたのでしょう、馬小屋でたしかに人の気配がするので、土間からそっと覗《のぞ》いてみると、圭吾がぶらりです。そこでもって、馬鹿! 命をそまつにするな! と叫び、ひきずりおろしたところへ、私たちが駈けつけたというわけでしたが、その、署長の、馬鹿! という声と共に私たちは立ち上り、思わず顔を見合せ、その時の、嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好《かっこう》は、いやもう、ほとんど神《しん》の如《ごと》くでした。おそろしいものです。そうして、私たちは馬小屋へ駈けつけ、圭吾は署
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