やうにさらさらと自然に御挙止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。
 相州さまがその年来の郎従の中で、特に功労のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく参上いたしましたと気軽に将軍家へ申し上げたところが、将軍家はにつこりお笑ひになつて、
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考ヘテミマシタカ
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「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。
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ダメデス
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「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。
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子孫ガソノ上ノ慾ヲオコシマス
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 凜乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。将軍家はさらにお言葉を続けられ、郎従をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎従なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御ところへも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混乱の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。
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コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。
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 お声もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、
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管絃ノハウガイイヤウデス
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 とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら声高くお笑ひになつて、
「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髪をいれず、
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ソレモアリマス
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 あざやかなものでございました。もちろんそれは冗談で、先日ちよつと相州さまや入道さまから遠まはしに何か言はれたからといつて、それを根にもつてこんな機会に強く返報なさるなどの下司らしい魂胆はみぢんも無く、また、無いからこそ、あんなに平然と、それもありますなどと笑つておつしやる事も出来るわけで、もしわづかでもお心にわだかまつてゐるものがあつたとしたら、とてもあんなにあつさりお答へ出来るものではございませぬ。相州さまも流石にそこは見抜いておいでの御様子で、将軍家のその御返事をうけたまはつてかへつて大いに御安心の面持ちになられ、お傍にはべつてゐる私たちに向つて、
「お互ひに仕合せなことです。」とまんざらお世辞でもないやうな、低いしんみりした口調でおつしやいました。
 そのやうな事がございましてから、将軍家はいよいよ御闊達に、謂はば御自身の霊感にしたがひ、のびのびと諸事を決裁なされ、相州さまにも広元さまにも、また尼御台さまにも、以前のやうに何かと御相談なさるといふ事も無くなり、いよいよ独自の御仁政をおはじめになつたやうに私たちには見受けられました。例の和田左衛門尉さまの国司所望の件も、その後、左衛門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて国司懇望の事、和田家の治承以来の数々の勲功をみづから列挙なされて、後生の念願ただこの国司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、将軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覧になり、前にその事に就いては尼御台さまから故右大将家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衛門尉さまをお召しになり、
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ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。
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 と事も無げにおつしやいました。左衛門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られましたが、私はそのとしの五月なかば、あのお天気のよい日に、のどかに御物語をなされてゐた御母子の美しく尊い御有様を忘れてはゐませんでしたので、子供心にもちよつとはらはら致しました。けれども、そのやうな事こそ凡慮の及ぶところではないので、あのお方の天与の霊感によつて発する御言動すべて一つも間違ひ無しと、あのお方に比すれば盲亀にひとしい私たちは、ただただ深く信仰してゐるより他はございませんでした。

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承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、将軍家、広元朝臣の家に渡御、相州、武州等参らる、和歌以下の御興宴に及ぶと云々、亭主三代集を以て贈物と為すと云々。廿一日、戊申、将軍家、三浦三崎に渡御、船中に於て管絃等有り、毎事興を催す、又小笠懸を覧る、常盛、胤長、幸氏以下其射手たりと云々。廿五日、壬子、陸奥国平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等の例に任せて、沙汰致す可きの旨、御置文を残さるるの処、寺塔年を追ひて破壊し、供物燈明以下の事、已に断絶するの由、寺僧各愁へ申す、仍つて広元奉行として、故の如く懈緩の儀有る可からざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると云々。
同年。十月小。十五日、庚午、聖徳太子の十七箇条の憲法、並びに守屋逆臣の跡の収公の田の員数在所、及び天王寺法隆寺に納め置かるる所の重宝等の記、将軍家日来御尋ね有り、広元朝臣相触れて之を尋ね、今日進覧すと云々。
同年。十一月大。廿二日、丙午、御持仏堂に於て、聖徳太子の御影を供養せらる、真智房法橋隆宣導師たり、此事日来の御願と云々。
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 あくる承元四年には、ただいま私の記憶に残つてゐる事もあまりございませんが、将軍家の御日常はいよいよのどかに、昨年より更におからだも御丈夫になられた御様子で、御多病のお方でございましたが、このとしには、いちどもおひき籠りになつた事が無かつたやうに覚えて居ります。例の和歌、管絃などの御宴会は、誰に遠慮もなさらずたびたび仰出されて、いまではもう将軍家も、すつかりおとなになつておしまひの事でございますから、入道さまも相州さまも、やや安心なさつた御様子でかれこれこまかい取越苦労の御助言をなさる事も少くなり、御自分たちのはうから将軍家をお遊びにお誘ひ申し上げる事さへあるやうになりました。まことに御高徳の感化の力は美事なものでございます。幕府は安泰、国は平和、時たま将軍家は、どこかの社寺が荒廃してゐるといふ訴へなどをお聞きになると、すぐさまその社寺に就いての故実をお調べになり興隆せしむべきすぢのものならば、相州さまを召して御ていねいなお言ひつけをなさつて、敬神崇仏の念のあまりお篤いお方とは申されませぬ相州さまがその度毎に閉口なさる御様子が御ところの軽い笑ひ話の種になるくらゐの、いかにも無事なその日その日が続いてゐました。この右大臣さまの御時は、源家存亡の重大時期で、はじめから終りまでただもう、反目嫉視陰謀の坩堝だつたなどと例の物知り顔が後にいたつて人に語つてゐたのを耳にした事もございますが、それは実際にその奥深く住んでみなければわからぬ事で、このとしなどは、お奥のお庭の八重桜まで例年になく重く美しく咲いて高く匂ひ、御ところにはなごやかな笑声が絶えま無く起り、御代万歳の仕合せにみんなうつとり浸つてゐました。このとしにはまた将軍家は、ずいぶんと御学問にいそしまれ、御政務のわづかな余暇にもあれこれと御書見なされて居られました。
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厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ
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 と口癖のやうにおつしやつて、聖徳太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、広元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手伝ひさせて、数知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。
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古今無双、マコトニ御神仏ノ御化身デス。
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 と嗄れたやうなお声でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御様子に見受けられた日もございました。
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海ノカナタノ諸々ノ国ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ
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 ともおつしやつて居られました。そのかみの、真に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を称し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有様で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出来るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御霊感に満ちた御言動、ねんごろな崇仏の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、浅墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと将軍家にお伺ひ申したところが、将軍家は淋しげにお笑ひになり、
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廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。
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 と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顔を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、またお夢ばかりではなく、御酒宴最中にお傍の人の顔をごらんになつて不意にその人の運命を御予言なさる事もございました。さうしてそれが必ず美事に的中してゐるのでございますから、どうしてもあのお方は、私たちとはまるで根元から違ふお生れつきだつたのだと信じないわけには参りませぬ。人の話に依りますと、おそれおほくも厩戸の皇子さまは、神通自在にましまして、御身体より御光を発して居られましたさうで、私どもにはただ勿体なく目のつぶれる思ひでその尊さお偉さに就いてはまことに仰ぎ見る事も何も叶ひませぬが、右大臣さまほどのお人になると流石に何か一閃、おわかりになるところでもあるのでございませうか、お口を極めて皇子さまの御頭脳、御手腕、御徳の深さをほめたたへて居られました。皇子さまの御治蹟こそ日本国の政治の永久の模範、ともおつしやつて居られましたが、御自身の御政策とも思ひ合せ、将来に於いてさまざま期するところがございましたのでせうけれども、あのやうな不運な御最期、たつた二十八歳、これからといふお年でおなくなりになられたのでございますから、まことに、源家の損失と申すよりは日本国の大きな損失と申し上げて至当かとも存ぜられます。

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承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、霽、寅剋大地震、今朝日に光陰無し、其色赤黄なり。
同年。二月小。廿二日、乙巳、晴、将軍家鶴岳宮に御参、朝光御剣を役す、去る承元二年已来、御疱瘡の跡を憚らしめ給ふに依りて御出無し、今日始めて此儀有り。
同年。五月小。十五日、丙寅、未剋地震。十九日、庚午、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛尉義村の代官と喧嘩の事有り、今日沙汰を経らる、此の如き地下職人に対し、奉行と称して恣に張行せしむるの間、動もすれば、喧嘩に及ぶ、偏に公平を忘るるの致す所なり、早く義村の奉行を改む可きの由仰出され
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