つぱり天性のお位に於いて格段の相違があるやうに私たちには見受けられました。その日も禅師さまは、御奥の人たち皆に、みつともないほどの叮嚀なお辞儀をなされて、さうして将軍家に対してはさらに見るに忍びぬくらゐの過度のおあいそ笑ひをお頬に浮べて御挨拶を申し、将軍家はただ黙つて首肯いて居られまして、京から下著の人にはたいてい京の御話を御所望なされ、それが将軍家の何よりのお楽しみの御様子でございましたのに、この時、公暁禅師さまにはなんのお尋ねもなく、そのうへ少しお顔色がお曇りになつて居られるやうにさへ拝されました。ふいとそのとき思ひましたのでございますが、将軍家は、この卑しいつくり笑ひをなさる禅師さまをひどくお嫌ひなのではなからうか、滅多に人を毛嫌ひなさらず、どんな人をも一様においつくしみなされてまゐりました将軍家が、この公暁禅師さまの事になると奇妙に御不快の色をお示しになり、六年前に、禅師さまが御落飾の御挨拶にお見えになつた時にも、将軍家は終始鬱々として居られたし、それから後も御前に於いてこの禅師さまのお噂が出ると急に座をお立ちになつたり、何かお心にこだはる事でもございますやうな御様子で、その日も禅師さまが、おどおどして、きまりわるげなお態度をなさればなさるほど、いよいよ将軍家のお顔色は暗く、不機嫌におなりのやうに拝されましたので、これはひよつとしたら将軍家はこの禅師さまをかねがね、あきたらず思召しなされて居られるのではなからうかと、私も当時二十一歳にもなつて居りまして、まあ身のほど知らずの生意気なとしごろでもございますから、そのやうな推参な事まで考へたやうな次第でございました。その日、禅師さまが御退出なされて後も、将軍家はしばらくそのまま黙つてお坐りになつて居られましたが、ふいとお傍の私たちのはうを振りかへられ、あれには仲間も無くて淋しからう、これから時折、僧院へお話相手に伺ふがよい、と仰せられ、そのお言葉を待つまでも無く、私にはあのお若い禅師さまの兢々たる御遠慮の御様子がおいたはしく、そのお身の上にも御同情禁じがたく、いつかゆつくりお話相手にでもお伺ひしたいものと考へてゐた矢先でございましたので、それから十日ほど経つて七月のはじめ、御ところの非番の日に、鶴岳宮の僧院へ、何か義憤に似た気持さへ抱いてお伺ひ申し上げたのでございます。昼のうちは御読経、御戒行でおひまもございませぬ由、かねて聞き及んで居りましたので、夜分にお訪ね申しましたが、禅師さまは少しも高ぶるところの無い、いかにも磊落の御応接振りをお示し下され、部屋の中は暑い、海岸に出て見ませうと私をうながして、外へ出ました。月も星も無く、まことに暗い夜でございました。禅師さまは、何もおつしやらずにどんどんさきにお歩きになり、そのお早いこと、私はほとんど走るやうにしておあとについてまゐりました。由比浦には人影も無く、ただあの、ことしの四月以来なぎさに打ち拾てられたままになつてゐる唐船の巨大な姿のみ、不気味な魔物の影のやうに真黒くのつそりと聳え立つてゐるだけで、申しおくれましたがこの唐船は、れいの陳和卿の設計に依り、そのとしの四月には出来上つて、十七日これを海に浮べんとして、午の剋から数百人の人夫が和卿の采配に従ひ、力のあらん限りをつくして曳きはじめましたものの、かほどの大船を動かすのは容易な事ではないらしく、また和卿のお指図にもずいぶんいい加減なところがございましたやうで、日没の頃にいたつてやつと浪打際に、わづかに舳を曳きいれる事が出来ただけで、しかも、この遠浅の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出来ないのはわかり切つてゐると、その頃になつて言ひ出す者もあり、さう言はれてみるとたしかにそのとほり、大船の出入できる浦ではなく、陳和卿にはまた独特の妙案があり、かならずこの浦に船を浮ばせて見せるといふ確信があつてこの造船を引受けたに違ひないものと思はれるし、とにかく和卿に、当初からの見とほしをあらためて問ひただしてみよう、といふ事になつて和卿を捜しましたところが、陳和卿はすでに逐電、けふの日をたのしみに、早くから由比浦におでましになつて大船の浮ぶのを今か今かと余念なくお待ちになつて居られた将軍家もこの逐電の報をお聞きになつて、もはや一切をお察しなされたやうで、興覚めたお顔でお引上げになつてしまひまして、将軍家の御渡宋に烈しく反対なされて居られたお方たちは、この時ひそかにお胸を撫で下されたに違ひございませぬが、をさまらぬのは、お供に選び出された風流武者の面々で、せつかくあれだけの大船を造り上げたのにこのまま中止とは残念だ、ひとつ我々の手でもういちど海へ曳きいれてみようではないか、などと言ひ出すお方もあつた程でございましたけれども、海の深浅を顧慮する法さへ知らぬ大馬鹿者の造つた船なら、たとひ、はるか沖まで曳き出してみたところで、ひつくり返るにきまつてゐる、と分別顔の人に言はれて、なるほどと感服して引下り、あれほど鎌倉中を騒がせた将軍家の御渡宋も、ここに於いて、まことにあつけなく、綺麗さつぱりとお流れになり、船は由比浦の汀に打捨てられ、いたづらに朽損じて行くばかりのやうでございました。御度量のひろい将軍家に於いては、もちろん、御計画の頓挫をいつまでも無念がつていらつしやるやうな事は無く、あの、大かたり者の陳和卿に対してもいささかもお怒りなさらず、
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医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。
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と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませんでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、やつぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して権門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。
「この船で、」と禅師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本当に宋へ行かうとなされたのかな。」
「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。
「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」
「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございますし、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお気もなさるまいと思はれます。」
「うまい事を言ふ。」禅師さまは笑つて、「ここへ坐らう。浜は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ来て、蟹をつかまへては焼いて食べます。」
「蟹を。」
「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。」
「いいえ、乱暴どころか、かへつて、お気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」
「それは、将軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見えて来て、たまらない。どうも、あの人は、まへから苦手だ。あの人は私を、ひどく嫌つてゐるらしい。」
私はなんともお答へできませんでした。
「あの人たちには、私のやうに小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男といふものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知れず、さげすまれてゐるやうな気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育つて来た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も変つたな。」
「お変りになりましたでせうか。」
「変つた。ばかになつた。まあ、よさう。蟹でもつかまへて来ようか。」うむ、と呻いてお立ち上りになつて、「あの唐船の下に、不思議なくらゐたくさん蟹が集るのだ。陳和卿も、公暁のために苦心して蟹の巣を作つてくれたやうなものです。しかし、あれも馬鹿な男だ。」
禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。
「残忍でございます。およしになつたら、いかがです。」
私は砂浜へ引上げて来てしまひました。
「とらない人には、食べさせないよ。」禅師さまは平気でそんな事を言ひながらも船腹をさぐり、また一匹引きずり出して、ぐしやりと叩きつけて砂浜へはふり上げ、「蟹は痛いとも思つてゐません。」
それが五匹になつた時に、禅師さまは、低く笑ひながら砂浜へ上つて来られて、その甲羅のつぶれた蟹を拾ひ集めて、
「なんだ、今夜のはみんな雌か。雌の蟹は肉が少くてつまらない。焚火をしよう。少し手伝つて下さい。」
私たちは小枝や乾いた海草など拾ひ集めました。五匹の蟹を浅く砂に埋めてその上に小枝や海草を積み重ねて火を点じ、やがてその薪の燃え尽きた頃に、砂の中から蟹を拾ひ上げられて、
「食べなさい。」
「いや、とても。」
「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」
「え?」私は、はつとして暗闇の中の禅師さまの顔を覗き込みました。けれども、こんどは蟹の脚をかりりと噛んで中の白い肉を指で無心にほじくり出し、いまはもう蟹の事の他は何も考へていらつしやらぬ御様子で、さうして、しばらくして、またふいと、
「死なうと思つてゐるのです。死んでしまふんだ。」さうして、また、かりりと蟹の脚を齧つて、「鎌倉へ来たのが間違ひでした。こんどは、たしかに祖母上の落度です。私は一生、京都にゐなければならなかつたのだ。」
「京都がそんなにお好きですか。」
「まだ私の気持がおわかりにならぬと見える。京都は、いやなところです。みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持つてゐません。だから私の住むのに、ちやうどいいところなのです。軽薄な野心家には、都ほど住みよいところはありません。」
「そんなに御自身を卑下なさらなくとも。」
「叔父上が、あれほど京都を慕つてゐながら、なぜ、いちども京都へ行かぬのか、そのわけをご存じですか。」
「それは、故右大将家の頃から、京都とはあまり接近せぬ御方針で、故右大将さまさへ、たつた二度御上洛なさつたきりで、――」
「しかし、思ひ立つたら宋へでも渡らうとする将軍家です。」
「邪魔をなさるお方もございませうし、――」
「それもある。へんな用心をして叔父上の上京をさまたげてゐる人もある。けれども、それだけでは、ないんだ。叔父上には、京都がこはいのです。」
「まさか。あれほどお慕ひしていらつしやるのに。」
「いや、こはいんだ。京都の人たちは軽薄で、口が悪い。そのむかしの木曾殿のれいもある事だ。将軍家といふ名ばかり立派だが、京の御所の御儀式の作法一つにもへどもどとまごつき、ずんぐりむつつりした田舎者、言葉は関東訛りと来てゐるし、それに叔父上は、あばたです、あばた将軍と、すぐに言はれる。」
「おやめなさいませ。将軍家は微塵もそんな事をお気にしてはいらつしやらない。失礼ながら、禅師さまとはちがひます。」
「さうですか。将軍家が気にしてゐなくたつて、人から見れば、あばたはあばただ。祖父の故右大将だつて、頭でつかちなもんだから京都へ行つたとたんにもう、大頭将軍といふ有難くもないお名前を頂戴して、あんな下賤の和卿などにさへいい加減にあしらはれて贈り物をつつかへされたり、さんざん赤恥をかかされてゐるんだ。京都といふのは、そんないやなところなのです
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