様子に見受けられました。あの、和田左衛門尉さまの上総の国司所望の事から、将軍家と尼御台さまが御争論をなされ、いよいよお二人の間が気まづくなつてしまつて、これがまた将軍家の孤独、厭世の思ひを深める原因となつた等と、もつともらしく取沙汰してみた人たちも少くなかつたやうで、もとより之は根も葉もない事ではなかつたのですが、でも、御争論などとは、とんでもない捏造で、あのやうな貴い御身分のお方たちが、それも実の御母子の間で、そんな軽々しい争論など、なさるわけのものではございません。おそらく一生、お二人の間にそんな争論などといふいやしい事はなかつたでございませう。あれは、五月のなかば、いいお天気の日でございましたが、尼御台さまは御奥へお越しなされて、将軍家と静かに御物語をなされ、私も謹んでお傍に控へて居りましたが、まことにのどかな、合掌したいくらゐの御立派な御賢母と御孝子、仕へるわが身のさいはひをしみじみ思ひ知りました。
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和田ガ上総ノ国司ヲ望ンデヰマスガ
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「いけませぬ。」
 尼御台さまは軽く即座におつしやいました。けれどもそのお口元には、いかにも、お
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