には、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顔をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、
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コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ
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 などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御学問にもいよいよおはげみの御様子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお読みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御様子で、末は故右大将家にまさるとも劣らぬ大将軍と、御ところの人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拝されました。

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建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、晴、辰刻、将軍家並びに尼御台所、二所に御進発、相州、武州、修理亮以下扈従すと云々。八日、乙酉、将軍家以下二所より御帰著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の国々の事、之を尋ね聞召さるるの後に就いて、今日其沙汰有り、向後に於ては、一ヶ月も故無くして不参せしめば、三ヶ月懃め加ふ可きの由、諸国の守護人等に仰せらる、義盛、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々。
同年。五月小。七日、辛酉、相模次郎朝時主、女事に依りて御気色を蒙る、厳閤又義絶するの間、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御台所の官女たり、而るに朝時好色に耽り、艶書を通ずと雖も、許容せざるに依り、去夜深更に及びて、潜かに彼局に到りて誘ひ出すの故なりと云々。
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 あくる建暦二年の二月に、私は、はじめて二所詣のお供をさせていただきました。承元元年正月以来五年振りのお詣りでございましたが、承元元年には将軍家は十六歳、その時には私はまだ御ところの御奉公にあがつてゐませんでしたので、このたびはそれこそ本当に、生れてはじめてのお供でございました。将軍家はこのとしから、ほとんど毎年、欠かさず二所詣をなさいまして、建保二年には正月と九月と二度もお参り致しました程で、その敬神のお心の深さは故右大将さまにもまさつて居られるやうに思はれました。故右大将さまも、なかなかに御信心深く、敬神崇仏をその御政綱の第一に置かれて、挙兵なされて間もない寿永元年には、その重だつた御家来たちに御慫慂なさつて、おのおの神馬砂金を伊勢の大廟に奉献せさせ、また伊勢別宮たる鎌倉の甘縄神社にはそれから程なく御自身、御台所さまと共に御参詣なされたとか、そのうへ、御幼時から観音経や法華経を御日課として読誦なされて居られたお方だつたさうで、その御信心の深さのほどに就いては、いろいろと承つて居りますけれども、当将軍家もまた御襲職以来、伊勢内外宮を始め鶴岳、二所、三嶋、日光その他あまたの神社に神馬を奉納仕り、御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の如く不動のものに見受けられました。この事に就いてはまたのちほども申し上げたいと存じて居りますが、このとしの二月、二所詣からお帰りになつて間もなくのこと、京都を守護し奉つてゐる諸国の侍たちがこのごろ役目を怠りがちだといふ事をお聞きになつて、大いに恐懼なされ、もつてのほかの事、今後は、一箇月間つとめを休んだ者にはさらに三箇月勤務を強ひるやう、と諸国の守護人にきつく申し渡されたやうな事もございました。もはや将軍家も御年二十一、次第に、荘厳と申してよいほどの陰影の深い尊さがその御言動にあらはれるやうになつて居りまして、同じ月の二十八日にも、実にお見事なる御裁決をなさいました。二
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