、佐原太郎兵衛尉に付せらると云々。
同年。六月小。二日、壬午、陰、申剋、将軍家俄かに御不例、頗る御火急の気有り、仍つて戌剋、御所の南庭に於て、属星祭を行はる。三日、癸未、晴、寅剋御不例御減、御夢想の告厳重と云々。七日、丁亥、越後国三味庄の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々。
同年。七月大。三日、壬子、晴、酉剋大地震、牛馬騒ぎ驚く。
同年。八月大。十五日、甲午、晴、鶴岳宮放生会、将軍家聊か御不例に依りて御出無し。廿七日、丙午、晴、将軍家御不例の後、始めて鶴岳八幡宮に詣で給ふ。
同年。九月小。十五日、甲子、晴、金吾将軍の若君、定暁僧都の室に於て落餝し給ふ、法名公暁。廿二日、辛未、霽、禅師公登壇受戒の為に、定暁僧都を相伴ひて上洛せしめ給ふ、将軍家より、扈従の侍五人を差遣はさる、是御猶子たるに依りてなり。
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 将軍家が二十歳におなりになつた承元五年は、三月九日から建暦元年と改元になりましたが、このとしは、しばしば大地震があつたり、ちかくに火事が起つたり、夏には永いこと雨が続いて洪水になつたり、また将軍家の御健康もすぐれ給はずとかくおひき籠りがちだつたものでございますから、それやこれやで、お奥におつとめの人たちも一様に浮かぬ顔をしてゐて笑声もあまり起らず、なんだか不吉な、いやな年でございました。
 もつとも、おひき籠りがちとは言つても、御気分のおよろしい時には、例の御酒宴に興じなされ、お歌のはうも相変らず、湧いて出る泉のやうに絶える事なくお美事にお出来になつて、また、あれは四月の末の事でございましたでせうか、皆をお連れになつて永福寺へおいでになり、お寺の林の中に永いこと童の如く無心に佇みなされて郭公の初声を今か今かとお待ちになつてゐたり等した事もございました。その時には、数剋もお待ちになつたのに、つひに郭公の一声も聞かれず、むなしくお帰りになられまして、まあその事くらゐが、わづかにお奥の笑ひ話の種になつたやうなもので、他にはこのとしには楽しい思ひ出もあんまりございませんでした。将軍家の御政務の御決裁も、このとしあたりから、いよいよ凜然と、いや、峻厳と申してもよろしいかと思はれるほど不思議に冴えてまゐりまして、それにつけても、その前年のやうな長閑な気色が次第に御ところから消えて行くやうな心もとなさを覚えるのでございました。五月なかばの事でございましたが、小笠原御牧の牧士と、奉行人三浦平六兵衛尉さまのお代官との私闘がございました時に、それはなんと言つても三浦さまはあのやうな御大身ではあり、そのお代官に対して、たかが牧士などの地下職人の分際で手向ひするとはもつての他、ばかな事をしたものだと誰もみな呆れて居りましたが、将軍家はそれに対してまことに霹靂の如き、意想外の御裁決を仰出されたのでございます。
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三浦ガワルイ。牧士ナドニ反抗サレルヤウデハ奉行ノ威徳ガナイノデス。奉行ヲヤメサセナサイ。
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 例の平然たる御態度で、さりげなくおつしやるのでした。その時は、末座に控へてゐる私まで、ひやりと致しました。真に思ひ切つたる豪胆無比の御裁決、三浦さまほどの御大身も何もかも、いつさい、御眼中に無く、謂はば天理の指示のままに、さらりと御申渡しなさる御有様は、毎度の事とは申しながら、ただもう瞠若、感嘆のほかございませんでした。なるほど、そのお代官が牧士などの地下職人を相手に喧嘩をはじめるとは奉行としても気のきかない話で、将軍家からさうおつしやられてみると、いかにも、もつとも、理の当然の御裁決には違ひございませぬが、でもまた、私たち凡俗のものにとつては、いやしくも三浦平六兵衛尉義村さまともあらうお人を、このやうに無雑作に、しかもやや苛酷と思はれるほどに御処置なされては、あとでどんな事になるだらうかとそれが心がかりでないこともございませんでした。さらにまた、六月のはじめ、和田左衛門尉さまが三味庄の地頭代を捕縛なされ、それに就いて少しややこしい事が起りました。越後国三味庄の領家の雑掌が盗賊の為に殺害せられ、その盗賊は逐電して何者とも判明しなかつたので、左衛門尉さまは、とにかくその庄の地頭代を召取らせ詮議を加へる事に相成つたところが、その地頭代の親戚の者たちが不服を称へ、内々手をまはして尼御台さまに訴へ申し上げたので妙に気まづい事になつてしまひました。その頃、将軍家は御病後の、まだお床につかれて居られましたが、たとひ御病床にあつても、まつり
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