ぬ由、かねて聞き及んで居りましたので、夜分にお訪ね申しましたが、禅師さまは少しも高ぶるところの無い、いかにも磊落の御応接振りをお示し下され、部屋の中は暑い、海岸に出て見ませうと私をうながして、外へ出ました。月も星も無く、まことに暗い夜でございました。禅師さまは、何もおつしやらずにどんどんさきにお歩きになり、そのお早いこと、私はほとんど走るやうにしておあとについてまゐりました。由比浦には人影も無く、ただあの、ことしの四月以来なぎさに打ち拾てられたままになつてゐる唐船の巨大な姿のみ、不気味な魔物の影のやうに真黒くのつそりと聳え立つてゐるだけで、申しおくれましたがこの唐船は、れいの陳和卿の設計に依り、そのとしの四月には出来上つて、十七日これを海に浮べんとして、午の剋から数百人の人夫が和卿の采配に従ひ、力のあらん限りをつくして曳きはじめましたものの、かほどの大船を動かすのは容易な事ではないらしく、また和卿のお指図にもずいぶんいい加減なところがございましたやうで、日没の頃にいたつてやつと浪打際に、わづかに舳を曳きいれる事が出来ただけで、しかも、この遠浅の由比浦に、とてもこんな大船など浮べる事の出来ないのはわかり切つてゐると、その頃になつて言ひ出す者もあり、さう言はれてみるとたしかにそのとほり、大船の出入できる浦ではなく、陳和卿にはまた独特の妙案があり、かならずこの浦に船を浮ばせて見せるといふ確信があつてこの造船を引受けたに違ひないものと思はれるし、とにかく和卿に、当初からの見とほしをあらためて問ひただしてみよう、といふ事になつて和卿を捜しましたところが、陳和卿はすでに逐電、けふの日をたのしみに、早くから由比浦におでましになつて大船の浮ぶのを今か今かと余念なくお待ちになつて居られた将軍家もこの逐電の報をお聞きになつて、もはや一切をお察しなされたやうで、興覚めたお顔でお引上げになつてしまひまして、将軍家の御渡宋に烈しく反対なされて居られたお方たちは、この時ひそかにお胸を撫で下されたに違ひございませぬが、をさまらぬのは、お供に選び出された風流武者の面々で、せつかくあれだけの大船を造り上げたのにこのまま中止とは残念だ、ひとつ我々の手でもういちど海へ曳きいれてみようではないか、などと言ひ出すお方もあつた程でございましたけれども、海の深浅を顧慮する法さへ知らぬ大馬鹿者の造つた船なら、たとひ、はるか沖まで曳き出してみたところで、ひつくり返るにきまつてゐる、と分別顔の人に言はれて、なるほどと感服して引下り、あれほど鎌倉中を騒がせた将軍家の御渡宋も、ここに於いて、まことにあつけなく、綺麗さつぱりとお流れになり、船は由比浦の汀に打捨てられ、いたづらに朽損じて行くばかりのやうでございました。御度量のひろい将軍家に於いては、もちろん、御計画の頓挫をいつまでも無念がつていらつしやるやうな事は無く、あの、大かたり者の陳和卿に対してもいささかもお怒りなさらず、
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医王山ホド、ウマクイカナカツタヤウデス。
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と何もかもご存じのやうな和やかな御微笑を含んで、おつしやつた事さへございまして、その後いちども御渡宋の御希望などおもらしになつた事はございませんでした。かの陳和卿はその後、生死のほども不明でございまして、まさか、日野外山に庵を結んで「方丈記」をお書上げになつたといふやうな話も聞かず、やつぱり、ただやたらに野心のみ強く狡猾の奇策を弄して権門に取入らんと試みた、あさはかな老職人に過ぎなかつたやうに思はれます。
「この船で、」と禅師さまは立止つて、そのぶざまな唐船を見上げ、「本当に宋へ行かうとなされたのかな。」
「さあ、とにかく、鎌倉からちよつとでもお遁れになつてみたいやうな御様子に拝されました。」今夜は、なんでも正直に申し上げようと思つてゐたのでございます。
「でも、あの医王山の長老とかいふ事だけは、信じてゐたのではないか。」
「いいえ、あれは偶然に符合いたしましたところを興がつて居られたといふだけの事で、もつともそれは誰にしたつて、自分の前身は知りたいものでございますし、たとひ信じないにしても医王山の長老などといふ御立派なところで、はしなくも一致したといふのは、わるいお気もなさるまいと思はれます。」
「うまい事を言ふ。」禅師さまは笑つて、「ここへ坐らう。浜は、やつぱり涼しい。私はこの頃、毎晩のやうにここへ来て、蟹をつかまへては焼いて食べます。」
「蟹を。」
「法師だつて、なまぐさは食ふさ。私は蟹が好きでな。もつとも私のやうな乱暴な法師も無いだらうが。」
「いいえ、乱暴どころか、かへつて、お気が弱すぎるやうに私どもには見受けられます。」
「それは、将軍家の前では別だ。あの時だけは全く閉口だ。自分のからだが、きたならしく見
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