うして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御ところの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将
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