ところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本当に気が気でございませんでした。
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将軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。
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 とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめてその万分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて来られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の不徳をはつきり知つたとでもいふやうなお気持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顔は、お痛はしいと申すよりは、もつたいない言草ながら、おそろしく異様奇怪のものでございまして、将軍家御発狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがございました。そのやうなうちにも御ところの周囲に於いては両軍乱れ戦ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鉄の棒を振りまはして阿修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎮西八郎さまの再来の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鉄棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬところが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辞を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出来ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでなくその百五十騎ことごとく一騎当千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは広元入道の宅、さうして一手は御ところに参入して将軍家を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早く御ところに駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御ところに攻め入る事になつたとか、御ところ方に於いては匠作泰時さまが御大将となつて一族郎党を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戦につとめて、終夜相戦ひ、暁に及んで無勢の和田方はさすがに疲労し、ひとまづ、さつと海辺まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戦でございました。翌る三日の寅剋には、和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千余騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御ところ方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髪を入れず智者の相州さまは、諸方に将軍家の御教書を発した為に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸国の軍勢も一度にどつと御ところ方について、ここに全く大勢が決せられた御様子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、将軍家はその御教書の文章をざつと御一読なされ、声を立ててお笑ひになられ、
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コレハ誰ノ文章デス
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 と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拝見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御文脈で、そのくせ変に野暮つたい狡猾なところもあり、将軍家が無邪気にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覚えに記憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。
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きん辺のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衛、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
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    五月三日 巳剋[#地から4字上げ]大膳大夫
[#地から4字上げ]相模守
 けれども相州さまは、にこりともなさらず、
「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。将軍家には、戦ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御様子をいちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大声で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戦となると、御平常とがらりと変つて、いかめしく猛り立つもののやうでございます。将軍家も流石に御不興気のお顔をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、
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相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。

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