喜びさうな和漢の猛将軍たちの肖像画といふわけでございまして、左衛門尉さまのその日のお喜びは、どのやうに深いものでございましたでせう。御ところの人々も、ひとりのこらず御老人のまさに末代までの御面目を慶賀し、かつは、おうらやみ申しました。光栄はそればかりでなく、八月十八日には、さらにこの義盛さまへ、同じ御気に入りの老勇士、結城の朝光さまと共に北の三間所、すなはち将軍家の御身辺ちかくに、いつも伺候してゐるやう仰出されまして、この三間所は、私たちのやうな若年の近習がほんの少数、かはり番に伺候してゐるところで、謂はば御ところのお奥でございまして、失礼ながら野暮のむさくるしい御老体など、まごつく場所ではないのでございますが、古いお物語なども随時聞きたいから、との仰せで特に三間所伺候に、さし加へられる事になつたのでございます。老いの面目これに過ぎたるは無く、そのお優しくこまかい、おいたはりには、他人の私どもでさへ、涙ぐましい思ひが致しました程でございます。老齢と雖もさらに奮起一番して粉骨砕身いよいよ御忠勤をはげみ、余栄を御子孫に残すべきところでございましたのに、まことに生憎のもので、この御寵愛最も繁かりしその翌年、あの大騒動にて御一族全滅に相成りました。或いは四月に御ところの御部屋の丸柱から、ひこばえが萌え出て、小さい白い花が咲いたり、或いは十月、鶴岳上宮に幾千万とも知れぬ羽蟻の大群が襲来したり、或いは歳末、鎌倉中の道路が異様の響きで鳴り出したり、この建暦二年といふとしは御ところ太平とは申しながら、その底には、どこやら、やつぱり不吉な鬼気がただよひ、おそろしい天災地変でも起るのではなからうかと、ひそかに懸念してゐた苦労性の人も無いわけではなかつたのでございますが、まさか、あの和田さまが。
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建暦三年癸酉。正月小。十六日、戊午、天晴、将軍家二所の御精進始なり。廿二日、甲子、天晴、二所に御進発、相州、武州等供奉し給ふ。廿六日、戊辰、晴、将軍家二所より御帰著と云々。
同年。二月大。一日、壬申、幕府に於て和歌御会有り、題は梅花万春を契る、武州、修理亮、伊賀次郎兵衛尉、和田新兵衛尉等参入す、女房相まじる、披講の後、御連歌有りと云々。二日、癸酉、昵近の祗候人の中、芸能の輩を撰びて結番せらる、学問所番と号す、各当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々に時の御要に随ふ
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