ぶと云々。
同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持参す、将軍家従二位に叙せられ給ふ。廿八日、庚子、晴、戌剋、鎌倉中聊か騒動す、道路其故無くして鼓騒す、是歳末の※[#「公/心」、第3水準1−84−41]劇に非ず、謀叛を発すの輩有るかの由、其疑有りと云々。
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 女房、童の端々にまで、そのやうに人知れぬ厳粛のお心づかひをなさつて居られたほどのお方でございますから、幕府の御重臣や御家人を大事になさることもまた、ひとかたでなく、諸人ひとしくその厚いお恵みに浴し、このお若い将軍家になびきしたがふこと、萱野の風になびくさまにも似て、まことに山よりも高く海よりも深き御恩徳の然らしむるところとは言へ、その御勢力の隆々たるさまは、御父君右大将さまにもまさる心地が致しました。まさにこの御年二十一歳、さらに翌年の御年二十二歳の頃が、将軍家御一身に於かれましても最もお得意の御時期ではなかつたらうかと、私には思はれてなりませぬ。甚だ失礼の推量で、まことに申し上げにくい事でございます。けれども、どうも、それから後は、暗い、と申しても言ひ過ぎで、御ところには陽気な笑声も起り、御酒宴、お花見、お歌会など絶える事もなく行はれて居りましたが、どこやら奇妙な、おそろしいものの気配が、何一つ実体はないのに、それでもなんだか、いやな、灰色のものの影が、御ところの内外にうろついてゐるやうに思はれて、時々ゆゑ知らず、ぞつとする事などもございまして、その不透明な、いまはしい、不安な物の影が年一年と、色濃くなつてまゐりまして、建保五、六年あたりから、あの悲しい承久元年にかけては、もうその訳のわからぬ不安の影が鎌倉中に充満して不快な悪臭みたいなものさへ感ぜられ、これは何か起らずにはすまぬ、驚天動地の大不祥事が起る、と御ところの人たちひとしく、口には言ひませぬけれども暗黙の裡にうなづき合つてゐたほどでございまして、人の心も解け合はず、お互ひ、これといふ理由もなしに、よそよそしく、疑ひおびえ、とてもこの建暦二年の御時勢の華やかさとは較べものにも何もならぬものでございました。この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはし
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