まるやうになつてゐましたが、それにしてもあのお方の、よろづに大人びたお心持に較べると、実にその間に天地の差がございまして、あのお方はこの建暦元年にはまだ二十歳におなりになつたばかりでございましたのに、このとしの七月、関東一帯大洪水の折、既にあの御立派な、
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時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘ
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 といふ和歌などもお作りになられ、名実ともに関東の大長者たる堂々の御貫禄をお示しになつて居られたのでございます。まことに、お生れつきとは申しながら、何事によらず、どこまで高く美事にお出来になるお方であつたか、私たち凡俗の者には、まるで推量も及びませぬ。
 お歌の事などは、またのちほどお話申し上げることと致しまして、さて、もうそろそろ、あの、若い禅師さまに就いてお話する事にいたしませう。誰しもご存じの事に違ひございませぬが、故右大将さまには、お二人の男のお子さまがございまして、お兄君は頼家公すなはち後の二品禅室さま、お弟君は千幡君すなはち後の右大臣さま、この他にも御同胞がございましたやうですが、皆お早くおなくなりになられ、故右大将さまが正治元年正月十三日、御年五十三を以て御他界なされた後は、源家嫡々のお兄君、当時十八歳の頼家公が御父君の御遺跡をお襲ぎになられましたが、このお方に就いては私などは、殆ど何も存じませぬ。御病身で、癇癖がお強く、御鞠の御名人で、しかも世に例のなかつたほどの美貌でいらつしやつたとか、そんな事くらゐを人から聞かされてゐる程度でございますが、いづれは非凡の御手腕もおありになつたお方に違ひございません。けれどもその頃は御時勢が悪かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が続出して諸事このお方の意のままにならず、また、例の御癇癖から、いくぶん御思慮の浅い御行状にも及んだ御様子で、御身内からの非難もあり、天もこのお方をお見捨てになつたか、御病気も次第に重くおなりになつて、建仁三年の八月つひに御危篤に陥り、ここに二代将軍頼家公も御決意なされ、御家督をその御長子一幡さまと定め、これに総守護職及び関東二十八ヶ国の地頭職をお譲りになり、また頼家公のお弟君の千幡さまには関西三十八ヶ国の地頭職をお譲りになられたのですが、これが、ごたごたの原因になりまして、たちまち一幡さまの外祖にあたる比企氏と千幡さまの外祖の
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