の物知り顔が後にいたつて人に語つてゐたのを耳にした事もございますが、それは実際にその奥深く住んでみなければわからぬ事で、このとしなどは、お奥のお庭の八重桜まで例年になく重く美しく咲いて高く匂ひ、御ところにはなごやかな笑声が絶えま無く起り、御代万歳の仕合せにみんなうつとり浸つてゐました。このとしにはまた将軍家は、ずいぶんと御学問にいそしまれ、御政務のわづかな余暇にもあれこれと御書見なされて居られました。
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厩戸ノ皇子ノコトヲモツト知リタイ
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と口癖のやうにおつしやつて、聖徳太子の御治蹟に就いて記されてある古文籍を、広元入道さまや、問註所の善信入道さまにもお手伝ひさせて、数知れずどつさりお集めになり、異常の御緊張を以てお調べなされて居られたのも、その頃のことでございました。
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古今無双、マコトニ御神仏ノ御化身デス。
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と嗄れたやうなお声でおつしやつて深い溜息をお吐きになるばかりで全く御放心の御様子に見受けられた日もございました。
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海ノカナタノ諸々ノ国ノ者ドモニモ知ラセテヤリタイ
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ともおつしやつて居られました。そのかみの、真に尊い厩戸の皇子さまの事など、その御名を称し奉るさへ私どもの全身がゆゑ知らず畏れをののく有様で、その御治蹟の高さのほどは推量も何も出来るものではございませぬが、たとへば、皇子さまの御慈悲の深さ、御霊感に満ちた御言動、ねんごろな崇仏の御心など、故右大臣さまにとつては、何かと有難い御教訓になつたところも多かつたのではなからうかと、わづかに、浅墓な凡慮をめぐらしてみるばかりの事でございます。厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないか
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