小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遥せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。
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五月六日には将軍家は、広元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを仮の御ところに定め、つづいて御台所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉近辺の人心はなかなかに静まらぬ様子で、五月、六月、ふたつきは何やら御ところの内外もざわめいて、御ところの人たちすべて落ちつかず、安からぬ気持でございました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御ところのあちこちを走りまはつて居られましたが、将軍家は相変らず、ぼんやりなされて、一日ぢゆうお奥でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御様子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に対し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることなく、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁走したとの説もあることゆゑ、専心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を広元入道さまにお言ひつけにな
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