将軍家を拝したのは、私にとつて、御奉公以来まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顔をなさつて居られたのでございます。それから四、五日経つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、
「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、
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アレハ和田ニ
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 とうつむいたまま低くおつしやいました。
 相州さまは真面目になつて、
「それだけはお取消しを願ひます。ひどく悪い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお声をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」
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和田ガ喜ンデヰルサウデス
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 将軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。
「お心の程は拝察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」
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ソレホド大キナ事トモ思ヘヌ
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「大事です。反逆の徒輩の処置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。将軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」
 将軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。
 胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取り
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