のこしてゐるので、ときどきは兇惡な顏にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼつて寺へかよふのである。庫裡の縁先には夏草が高くしげつてゐて、鷄頭の花が四つ五つ咲いてゐた。住職はたいてい晝寢をしてゐるのであつた。彼はその縁先からもしもしと聲をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を振つて出て來た。
 彼はきやうもんの意味に就いて住職に問ふのであつた。住職はちつとも知らなかつた。住職はまごついてから、あはははと聲を立てて笑ふのであつた。彼もほろにがく笑つてみせた。それでよかつた。ときたま住職へ怪談を所望した。住職は、かすれた聲で二十いくつの怪談をつぎつぎと語つて聞せた。この寺にも怪談があるだらう、と追及したら、住職は、とんとない、と答へた。
 それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮ばかりしてゐた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺を厭いた。母が死んでから始めて氣がついたことだけれども、彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめてゐたのであつた。
 母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣のまちの大きい割烹店へとついでゐた。下のは、都の、體操のさかんな或る私立の女學校へかよつてゐて、夏冬の休暇のときに歸郷するだけであつた。黒いセルロイドの眼鏡をかけてゐた。彼等きやうだい三人とも、眼鏡をかけてゐたのである。彼は鐵ぶちを掛けてゐた。姉娘は細い金ぶちであつた。
 彼はとなりまちへ出て行つてあそんだ。自分の家のまはりでは心がひけて酒もなんにも飮めなかつた。となりのまちでささやかな醜聞をいくつも作つた。やがてそれにも疲れた。
 子供がほしいと思つた。少くとも、子供は妻との氣まづさを救へると考へた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなはなかつた。鼻に附いたのである。
 三十になつて、少しふとつた。毎朝、顏を洗ふときに兩手へ石鹸をつけて泡をこしらへてゐると、手の甲が女のみたいにつるつる滑つた。指先が煙草のやにで黄色く染まつてゐた。洗つても洗つても落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱づつ吸つてゐた。
 そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまへ、妻が都の病院に凡そひとつきも祕密な入院をしたのであつた。
 女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かつ
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