背中にそそがれてゐる女の視線をいたいほど感じてゐた。列車は、もう通り過ぎてしまつて、前方の森の蔭からその車輛のひびきが聞えるだけであつた。男は、ひと思ひに、正面にむき直つた。もし女と視線がかち合つたなら、そのときには鼻で笑つてかう言つてやらう。日本の汽車もわるくないね。
女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いてゐたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の眼にしみた。このままうちへ歸るつもりかしら。いつそ、けつこんしようか。いや、ほんたうはけつこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。
男はステツキをぴつたり小脇にかかへて、はしりだした。女へ近づくにつれて、男の決意がほぐれはじめた。女は痩せた肩をすこしいからせて、ちやんとした足どりで歩いてゐた。男は、女の二三歩うしろまではしつて來て、それからのろのろと歩いた。憎惡だけが感ぜられるのだ。女のからだぢゆうから、我慢できぬいやな臭ひが流れ出てくるやうに思はれた。
二人はだまつて歩きつづけた。道のまんなかにひとむれの川楊が、ぽつかり浮んだ。女はその川楊の左側を歩いた。男は右側をえらんだ。
逃げよう。解決もなにも要らぬ。おれが女の心に油ぎつた惡黨として、つまりふつうの男として殘つたとて、構はぬ。どうせ男はかういふものだ。逃げよう。
川楊のひとむれを通り越すと、二人は顏を合せずに、またより添つて歩いた。たつたひとこと言つてやらうか。おれは口外しないよ、と。男は片手で袂の煙草をさぐつた。それとも、かう言つてやらうか。令孃の生涯にいちど、奧樣の生涯にいちど、それから、母親の生涯にいちど、誰にもあることです。よいけつこんをなさい。すると、この女はなんと答へるのであらう。ストリンドベリイ? と反問してくるにちがひない。男はマツチをすつた。女の蒼黒い片頬がゆがんだまま男のつい鼻の先に浮んだ。
たうとう男はたちどまつた。女も立ちどまつた。お互ひに顏をそむけたまま、しばらく立ちつくしてゐたのである。男は女が泣いてもゐないらしいのをいまいましく思ひながら、わざと氣輕さうにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。ぢき左側に男の好んで散歩に來る水車小屋があつた。水車は闇の中でゆつくりゆつくりまはつてゐた。女は、くるつと男に背をむけて、また歩きだした。男は煙草を
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