おいやでしょうけれど、ほんとに。」あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願する有様には、真剣なものがあった。ひとにものをたのまれて、拒否できるような男爵ではなかった。
「ああ、いいよ。いいとも。」
 撮影所から退去して、電車にゆられながら、男爵は、ひどく不愉快であった。もとの女中と、新橋駅で逢うということが、いやらしく下品に感じられてならなかった。破廉恥《はれんち》であると思った。不倫でさえあると考えた。行こうか行くまいか、さんざ迷った。行くことにきめた。約束を平気で破れるほど、そんなに強い男爵ではなかった。
 九時に新橋駅で、小さいとみを捜し出して、男爵は、まるで、口もきかずに、ずんずん歩いた。とみは、ほとんど駈けるようにしてそのあとを追いながら、右から左から、かれの顔を覗き込んでは、際限なくいろいろの質問を発した。おもに、故郷のことに就《つ》いてであった。男爵は、もう八年以上も国へ帰らずに居るので、故郷のことは、さっぱり存じなかった。それゆえ、さあ、とか、あるいは、とか、頗《すこぶ》るいい加減な返答をして堪えていたがおしまいには、それもめんどうくさく、めちゃめちゃになって As
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