気を取り直して、家へはいる。トランクひとつさげていない自身の姿を、やりきれなく思う。家の中は、小暗く、しんとしている。あによめが、いちばんさきに私の姿を見つけるにちがいない。私は、すでに針のむしろの思いである。私は、阿呆のような無表情にちがいない。ただ、ぬっとつっ立っている。あによめの顔には、たしかに、恐怖の色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚い中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと怜悧《れいり》に甘えていた、あの痩《や》せぎすの高等学校の生徒であろうか。いやらしい、いやらしい。眼は黄色く濁って、髪は薄く、額は赤黒く野卑にでらでら油光りして、唇は、頬は、鼻は、――あによめは、あまりの恐怖に、わなわなふるえる。
母の病室。ああ、これは、やっぱり困ったことだ。どうにも想像の外である。私の空想は、必ずむざんに適中する。おそろしい。考えてはならぬところだ。ここは、避けよう。
私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそに嫁いでいる私のすぐの姉も、忍び足でついて出て来て、
「よく来たねえ。」低く低くそう言う。
私は、てもなく、嗚咽《おえつ》してしまうであろう。
この姉だけは、私を恐れず、私の泣きやむのを廊下に立ったままで、しずかに待っていて呉れそうである。
「姉さん、僕は親不孝だろうか。」
――男爵は、そこまで考えて来て、頭から蒲団をかぶってしまった。久しぶりで、涙を流した。
すこしずつ変っていた。謂わば赤黒い散文的な俗物に、少しずつ移行していたのである。それは、人間の意志に依る変化ではなかった。一朝めざめて、或る偶然の事件を目撃したことに依って起った変化でもなかった。自然の陽が、五年十年の風が、雨が、少しずつ少しずつかれの姿を太らせた。一茎の植物に似ていた。春は花咲き、秋は紅葉する自然の現象と全く似ていた。自然には、かなわない。ときどきかれは、そう呟《つぶや》いて、醜く苦笑した。けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレッシュな気配を身辺に感じることも、たまにはあった。人間はここからだな、そう漠然と思うのであるが、さて、さしあたっては、なんの手がかりもなかった。
このごろは、かれも流石《さすが》に訪問客たちの接待に閉口を感じはじめていた。かれらの夜々の談笑におとなしく耳を傾けているのではあるが、どうにもやり切れない思いのすることがあった。かれには、訪問客たちの卑屈にゆがめられているエゴイズムや、刹那主義的な奇妙な虚栄を非難したい気持ちはなかった。すべては弱さから、と解していた。この人たちは皆、自分の愛情の深さを持てあまし、そうして世間的には弱くて不器用なので、どこにも他に行くところがなくなって、そうして僕のところに来ているのだ、気の毒である。せめて僕だけでも親切にもてなしてやらなければいけない、とそう思っていたのである。ところが、このごろ、ふっと或る種の疑念がわいて出た。なぜ、この人たちは働かないのかしら。たいへん素朴な疑念であった。求めて職が得られないならば、そのときには、純粋に無報酬の行為でもよい。拙《つた》なくても、努力するのが、正しいのではないのか。世の中は、それをしなければ、とても生きて居れないほどきびしいところではないのか。生活の基本には、そんな素朴な命題があって、思考も、探美も、挨拶も、みんなその上で行われているもので、こんなに毎晩毎晩、同じように、寝そべりながら虚栄の挨拶ばかり投げつけ合っているのは、ずいぶん愚かな、また盲目的に傲慢《ごうまん》な、あさましいことではないのか。ここに集る人たちより、もっと高潔の魂を持ち、もっと有識の美貌の人たちでも、ささやかな小さい仕事に一生、身を粉《こ》にして埋もらせているのだ。あの活動写真の助手は、まだこの仲間では、いちばん正しい。それを、みんなが嘲《あざけ》って、僕まで、あの人のはり切りに閉口したのは、これはよくなかった。はり切りという言葉は、これは下品なものではなかった。滑稽《こっけい》なものではなかった。ここに集る人たちは、みんな貧しく弱い。けれども、一時代のこの世の思潮が、この種の人たちを変に甘えさせて、不愉快なものにしてしまった。一体、いまの僕には、この人たちを親切にもてなす程の余裕が、あるのかしら。僕だって今では、同じ様に、貧しく弱い。ちっとも違っていないじゃないか。それに、いまでは、ブルジョアイデオロギーの悪徳が、かつての世の思潮に甘やかされて育った所謂《いわゆる》「ブルジョア・シッペル」たちの間にだけ残っているので、かえって滅亡のブルジョアたちは、その廃頽《はいたい》の意識を捨てて、少しずつ置き直って「るのではないか。それゆえに現代は、いっそう複雑に微妙な風貌をしているのではないか。弱いか
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