三つのテエブルも、みんな白くほこりをかぶっていた。かれは躊躇《ちゅうちょ》せず、入口にちかい隅の椅子に腰をおろした。いつも隅は、男爵に居心地がよかった。そこで、ずいぶん待たされた。客はひとりもはいって来なかった。はじめのうちは、或いは役者などがはいって来ないとも限らぬ、とずいぶん緊張していたのであるが、あまりの閑散に男爵も呆れ、やがて緊張の疲れが出て来て、ぐったりなってしまった。牛乳を三杯のんで、約束の午後二時はとっくに過ぎ、四時ちかくなって、その飲食店の硝子戸が夕日に薄赤く染まりかけて来たころ、がらがらがらとあの恐ろしい大音響がして、一個の男が、弾丸のように飛んで来た。
「や。しっけい、しっけい。煙草あるかい?」
 男爵は、にこにこ笑って立ちあがり、ポケットから煙草を二つ差し出し、
「僕も、やっと今しがた来たばかりで、どうも、おそくなって。」と変なあやまりかたをした。
「ま、いいさ。」相手の男は、気軽にゆるした。「僕もね、きょうから生田組の撮影がはじまっているので、てんてこ舞いさ。」言いながら落ちつきなく手を振り足踏みして、てんてこ舞いをしてみせた。
 男爵は、まじめになり、その男のてんてこ舞いを見つめ、一種の感動を以《もっ》て、
「はり切っていますね。」そう不用意に言ってしまって、ひやとした。自分のそんな世俗の評語が、芸術家としての相手の誇りを傷けはせぬかと、案じられた。「芸術の制作衝動と、」すこしとぎれた。あとの言葉を内心ひそかにあれこれと組み直し、やっと整理して、さいごにそれをもう一度、そっと口の中で復誦してみて、それから言い出した。「芸術の制作衝動と、日常の生活意慾とを、完全に一致させてすすむということは、なかなか稀《まれ》なことだと思われますが、あなたはそれを素晴らしくやってのけて居られるように見受けられます。美しいことです。僕は、うらやましくてならない。」たいへんなお世辞である。男爵は言い終って、首筋の汗をそっとハンケチで拭《ぬぐ》った。
「そんなでもないさ。」相手の男は、そう言って、ひひと卑屈に笑った。「うちの撮影所、見たいか?」
 男爵は、もう、見たくなかった。
「ぜひとも。」と力こめてたのんでしまった。死ぬる思いであった。
「オーライ!」ばかばかしく大きい声で叫んで、「カムオン!」またばかばかしく叫んで、飲食店から飛んで出た。かれは仕方なく、とぼ
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