ども節子の懸命な声に負けた。「わるい奴だ。」と誰にともなく言って、また食事をつづけた。節子は泣いた。母も、うなだれていた。
 節子には、兄の生活内容が、ほぼ、わかって来た。兄には、わるい仲間がいた。たくさんの仲間のうち、特に親しくしているのが三人あった。
 風間七郎。この人は、大物であった。勝治は、その受験勉強の期間中、仮にT大学の予科に籍を置いていたが、風間七郎は、そのT大学の予科の謂《い》わば主《ぬし》であった。年齢もかれこれ三十歳に近い。背広を着ていることの方が多かった。額《ひたい》の狭い、眼のくぼんだ、口の大きい、いかにも精力的な顔をしていた。風間という勅選議員の甥《おい》だそうだが、あてにならない。ほとんど職業的な悪漢である。言う事が、うまい。
「チルチル(鶴見勝治の愛称である)もうそろそろ足を洗ったらどうだ。鶴見画伯のお坊ちゃんが、こんな工合いじゃ、いたましくて仕様が無い。おれたちに遠慮は要らないぜ。」思案深げに、しんみり言う。
 チルチルなるもの、感奮一番せざるを得ない。水臭いな、親爺《おやじ》は親爺、おれはおれさ、ザマちゃん(風間七郎の愛称である)お前ひとりを死なせないぜ、なぞという馬鹿な事を言って、更に更に風間とその一党に対して忠誠を誓うのである。
 風間は真面目な顔をして勝治の家庭にまで乗り込んで来る。頗《すこぶ》る礼儀正しい。目当《めあて》は節子だ。節子は未だ女学生であったが、なりも大きく、顔は兄に似ず端麗《たんれい》であった。節子は兄の部屋へ紅茶を持って行く。風間は真白い歯を出して笑って、コンチワ、と言う。すがすがしい感じだった。
「こんないい家庭にいて、君、」と隣室へさがって行く節子に聞える程度の高い声で、「勉強しないって法は無いね。こんど僕は、ノオトを都合してやるから勉強し給え。」と言う。
 勝治は、にやにや笑っている。
「本当だぜ!」風間は、ぴしりと言う。
 勝治は、あわてふためき、
「うん、まあ、うん、やるよ。」と言う。
 鈍感な勝治にも、少しは察しがついて来た。節子を風間に取りもってやるような危険な態度を表しはじめた。みつぎものとして、差し上げようという考えらしい。風間がやって来ると用事も無いのに節子を部屋に呼んで、自分はそっと座はずす。馬鹿げた事だ。夜おそく、風間を停留場まで送らせたり、新宿の風間のアパートへ、用も無い教科書などをとどけさせたりする。節子は、いつも兄の命令に従った。兄の言に依《よ》れば、風間は、お金持のお坊ちゃんで秀才で、人格の高潔な人だという。兄の言葉を信じるより他はない。事実、節子は、風間をたよりにしていたのである。
 アパートへ教科書をとどけに行った時、
「や、ありがとう。休んでいらっしゃい。コーヒーをいれましょう。」気軽な応対だった。
 節子は、ドアの外に立ったまま、
「風間さん、私たちをお助け下さい。」あさましいまでに、祈りの表情になっていた。
 風間は興覚めた。よそうと思った。
 さらに一人。杉浦透馬。これは勝治にとって、最も苦手《にがて》の友人だった。けれども、どうしても離れる事が出来なかった。そのような交友関係は人生にままある。けれども杉浦と勝治の交友ほど滑稽で、無意味なものも珍しいのである。杉浦透馬は、苦学生である。T大学の夜間部にかよっていた。マルキシストである。実際かどうか、それは、わからぬが、とにかく、当人は、だいぶ凄《すご》い事を言っていた。その杉浦透馬に、勝治は見込まれてしまったというわけである。
 生来、理論の不得意な勝治は、ただ、閉口するばかりである。けれども勝治は、杉浦透馬を拒否する事は、どうしても出来なかった。謂わば蛇《へび》に見込まれた蛙《かえる》の形で、這《は》いつくばったきりで身動きも何も出来ないのである。あまりいい図ではなかった。この事に就いては、三つの原因が考えられる。生活に於いて何不足なく、ゆたかに育った青年は、極貧の家に生れて何もかも自力で処理して立っている青年を、ほとんど本能的に畏怖しているものである。次に考えられるのは、杉浦透馬が酒も煙草もいっさい口にしないという点である。勝治は、酒、煙草は勿論の事、すでに童貞をさえ失っていた。放縦《ほうじゅう》な生活をしている者は、かならずストイックな生活にあこがれている。そうして、ストイックな生活をしている人を、けむったく思いながらも、拒否できず、おっかなびっくり、やたらに自分を卑下してだらだら交際を続けているものである。三つには、杉浦透馬に見込まれたという自負である。見込まれて狼狽閉口していながらも、杉浦君のような高潔な闘士に、「鶴見君は有望だ」と言われると、内心まんざらでないところもあったのである。何がどう有望なのか、勝治には、わけがわからなかったのであるが、とにかく、今の勝治を、まじめにほめてくれる友人は、この杉浦透馬ひとりしか無いのである。この杉浦にさえ見はなされたら、ずいぶん淋《さび》しい事になるだろうと思えば、いよいよ杉浦から離れられなくなるのである。杉浦は実に能弁の人であった。トランクなどをさげて、夜おそく勝治の家の玄関に現れ、「どうも、また、僕の身辺が危険になって来たようだ。誰かに尾行《びこう》されているような気もするから、君、ちょっと、家のまわりを探ってみて来てくれないか。」と声をひそめて言う。勝治は緊張して、そっと庭のほうから外へ出て家のぐるりを見廻り、「異状ないようです。」と小声で報告する。「そうか、ありがとう。もう僕も、今夜かぎりで君と逢《あ》えないかも知れませんが、けれども一身の危険よりも僕にはプロパガンダのほうが重大事です。逮捕される一瞬前まで、僕はプロパガンダを怠る事が出来ない。」やはり低い声で、けれども一語の遅滞《ちたい》もなく、滔滔《とうとう》と述べはじめる。勝治は、酒を飲みたくてたまらない。けれども、杉浦の真剣な態度が、なんだかこわい。あくびを噛《か》み殺して、「然《しか》り、然り」などと言っている。杉浦は泊って行く事もある。外へ出ると危険だというのだから、仕様が無い。帰る時には、党の費用だといって、十円、二十円を請求する。泣きの涙で手渡してやると、「ダンケ」と言って帰って行く。
 さらに一人、実に奇妙な友人がいた。有原修作。三十歳を少し越えていた。新進作家だという事である。あまり聞かない名前であるが、とにかく、新進作家だそうである。勝治は、この有原を「先生」と呼んでいた。風間七郎から紹介されて相知ったのである。風間たちが有原を「先生」と呼んでいたので、勝治も真似をして「先生」と呼んでいただけの話である。勝治には、小説界の事は、何もわからぬ。風間たちが、有原を天才だと言って、一目置いている様子であったから、勝治もまた有原を人種のちがった特別の人として大事に取扱っていたのである。有原は不思議なくらい美しい顔をしていた。からだつきも、すらりとして気品があった。薄化粧している事もある。酒はいくらでも飲むが、女には無関心なふうを装《よそお》っていた。どんな生活をしているのか、住所は絶えず変って、一定していないようであった。この男が、どういうわけか、勝治を傍にひきつけて離さない。王様が黒人の力士を養って、退屈な時のなぐさみものにしているような図と甚《はなは》だ似ていた。
「チルチルは、ピタゴラスの定理って奴を知ってるかい。」
「知りません。」勝治は、少ししょげる。
「君は、知っているんだ。言葉で言えないだけなんだ。」
「そうですね。」勝治は、ほっとする。
「そうだろう? 定理ってのは皆そんなものなんだ。」
「そうでしょうか。」お追従《ついしょう》笑いなどをして、有原の美しい顔を、ほれぼれと見上げる。
 勝治に圧倒的な命令を下して、仙之助氏の画を盗み出させたのも、こいつだ。本牧《ほんもく》に連れていって勝治に置いてきぼりを食らわせたのも、こいつだ。勝治がぐっすり眠っている間に、有原はさっさとひとりで帰ってしまったのである。勝治は翌る日、勘定《かんじょう》の支払いに非常な苦心をした。おまけにその一夜のために、始末のわるい病気にまでかかった。忘れようとしても、忘れる事が出来ない。けれども勝治は、有原から離れる事が出来ない。有原には、へんなプライドみたいなものがあって、決してよその家庭には遊びに行かない。たいてい電話で勝治を呼び出す。
「新宿駅で待ってるよ。」
「はい。すぐ行きます。」やっぱり出掛ける。
 勝治の出費は、かさむばかりである。ついには、女中の松やの貯金まで強奪するようにさえなった。台所の隅で、松やはその事をお嬢さんの節子に訴えた。節子は自分の耳を疑った。
「何を言うのよ。」かえって松やを、ぶってやりたかった。「兄さんは、そんな人じゃないわ。」
「はい。」松やは奇妙な笑いを浮べた。はたちを過ぎている。
「お金はどうでも、よござんすけど、約束、――」
「約束?」なぜだか、からだが震えて来た。
「はい。」小声で言って眼を伏せた。
 ぞっとした。
「松や、私は、こわい。」節子は立ったままで泣き出した。
 松やは、気の毒そうに節子を見て、
「大丈夫でございます。松やは、旦那様にも奥様にも申し上げませぬ。お嬢様おひとり、胸に畳《たた》んで置いて下さいまし。」
 松やも犠牲者のひとりであった。強奪せられたのは、貯金だけではなかったのだ。
 勝治だって、苦しいに違いない。けれども、この小暴君は、詫びるという法を知らなかった。詫びるというのは、むしろ大いに卑怯な事だと思っていたようである。自分で失敗をやらかす度毎に、かえって、やたらに怒るのである。そうして、怒られる役は、いつでも節子だ。
 或る日、勝治は、父のアトリエに呼ばれた。
「たのむ!」仙之助氏は荒い呼吸をしながら、「画を持ち出さないでくれ!」
 アトリエの隅に、うず高く積まれてある書き損じの画の中から、割合い完成せられてある画を選び出して、二枚、三枚と勝治は持ち出していたのである。
「僕がどんな人だか、君は知っているのですか?」父はこのごろ、わが子の勝治に対して、へんに他人行儀のものの言いかたをするようになっていた。「僕は自分を、一流の芸術家のつもりでいるのだ。あんな書き損じの画が一枚でも市場に出たら、どんな結果になるか、君は知っていますか? 僕は芸術家です。名前が惜しいのです。たのむ。もう、いい加減にやめてくれ!」声をふるわせて言っている仙之助氏の顔は、冷い青い鬼のように見えた。さすがの勝治もからだが竦《すく》んだ。
「もう致しません。」うつむいて、涙を落した。
「言いたくない事も言わなければいけませんが、」父は静かな口調にかえって、そっと立ち上り、アトリエの大きい窓をあけた。すでに初夏である。「松やを、どうするのですか?」
 勝治は仰天した。小さい眼をむき出して父を見つめるばかりで、言葉が出なかった。
「お金をかえして、」父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽《かす》かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでしょう?」
「誰が言ったんです! 誰が!」矢庭《やにわ》に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴《け》って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」
 恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の如くアトリエを飛び出し、ちくしょうめ! ちくしょうめ! を連発しながら節子を捜し廻り、茶の間で見つけて滅茶苦茶にぶん殴《なぐ》った。
「ごめんなさい、兄さん、ごめん。」節子が告げ口したのではない。父がひとりで、いつのまにやら調べあげていたのだ。
「馬鹿にしていやあがる。ちくしょうめ!」引きずり廻して蹴たおして、自分もめそめそ泣き出して、「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 兄さんは、な、こう見えたって、人から奢《おご》られた事なんかただの一度だってねえんだ。」意外な自慢を口走った。ひとに遊興費を支払わせたことが一度も無いというのが、この男の生涯に於ける唯一の必
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