る日、勝治は、父のアトリエに呼ばれた。
「たのむ!」仙之助氏は荒い呼吸をしながら、「画を持ち出さないでくれ!」
アトリエの隅に、うず高く積まれてある書き損じの画の中から、割合い完成せられてある画を選び出して、二枚、三枚と勝治は持ち出していたのである。
「僕がどんな人だか、君は知っているのですか?」父はこのごろ、わが子の勝治に対して、へんに他人行儀のものの言いかたをするようになっていた。「僕は自分を、一流の芸術家のつもりでいるのだ。あんな書き損じの画が一枚でも市場に出たら、どんな結果になるか、君は知っていますか? 僕は芸術家です。名前が惜しいのです。たのむ。もう、いい加減にやめてくれ!」声をふるわせて言っている仙之助氏の顔は、冷い青い鬼のように見えた。さすがの勝治もからだが竦《すく》んだ。
「もう致しません。」うつむいて、涙を落した。
「言いたくない事も言わなければいけませんが、」父は静かな口調にかえって、そっと立ち上り、アトリエの大きい窓をあけた。すでに初夏である。「松やを、どうするのですか?」
勝治は仰天した。小さい眼をむき出して父を見つめるばかりで、言葉が出なかった。
「お金をかえして、」父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽《かす》かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでしょう?」
「誰が言ったんです! 誰が!」矢庭《やにわ》に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴《け》って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」
恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の如くアトリエを飛び出し、ちくしょうめ! ちくしょうめ! を連発しながら節子を捜し廻り、茶の間で見つけて滅茶苦茶にぶん殴《なぐ》った。
「ごめんなさい、兄さん、ごめん。」節子が告げ口したのではない。父がひとりで、いつのまにやら調べあげていたのだ。
「馬鹿にしていやあがる。ちくしょうめ!」引きずり廻して蹴たおして、自分もめそめそ泣き出して、「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 兄さんは、な、こう見えたって、人から奢《おご》られた事なんかただの一度だってねえんだ。」意外な自慢を口走った。ひとに遊興費を支払わせたことが一度も無いというのが、この男の生涯に於ける唯一の必
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